「雨色夕立日和」 presented by 三坂 詩乃
「……咲希? どうしたの」
梅雨の冷たい空気がしっとりと頬を濡らすような、そんな雨の日だった。
霧雨が侵食するように上着を湿らせていく。
冷感が肌に届くか届かないか、そんな曖昧な温度の雨だった。
雨色の影の中で、ただ一人立ち尽くす幼馴染の姿を見つけた僕は、声をかけた。
「…………」
咲希は僕に全く目を合わせずに、今にも落ちて来そうな重い空を見上げていた。分厚い雲に遮られて陽光は一切届かない。雨が終点で散り砕ける音が、耳を澄ませばちらちらと響いてきた。
「咲希」
僕はもう一度名前を呼んだ。
この薄い水のカーテンにさえ自分の存在は掻き消されてしまうのか? あまりにも脆く伸ばした声がぷつりと容易く途切れそうで、ふと背筋に氷が張り付いた。
「……*明人*(アキト)」
その声の余韻を、すぐ傍を掠めていった自動車の排気音が攫っていく。僕は一つ歩み寄った。そして持ち上げた次の足が、咲希の声に切り裂かれてぼたりと落ちた。
「どうしたの」
涙を凍らせたような、透き通ったひんやりした声だった。
僕は言葉を失って、その顔をつい凝視した。
――その頬の輪郭を伝っていたのは、果たして幾つか合わさって玉になった霧雨の欠片だったのか。それとも、もっともっと熱い雫だったのだろうか。
「いや……だ、だって咲希が」
雨が降っているのに、傘も差さずに突っ立っているから。必死に絞り出した言葉が最後まで言い切るより先にねじ切れた。
何だってこんな、ぼろぼろに傷つききった顔をしているんだろう。
こんなに内の曇った硝子玉をどう撫でたら、僕の好意は慰めの形をとるんだろう。
「……雨、降ってるじゃないか。風邪引いちゃうよ」
やっと繕った言葉は在り来たりでぱっとしないものだった。その言葉を咲希は鼻で笑った。
「何それ。わたしそんなの気にしないよ」
咲希がそういう性格であることは、僕もよく知っていた。自分が好むことだけに突っ走り、信念は貫き通す。それ以外の事には見向きせず、関心も持たない。
だけど、風邪を引くことがつまらないとして、咲希が此処に居る理由とは何だろう?
「……咲希。ほんとにどうしたんだよ。何で此処に、一人で……」
「一人じゃない」
咲希は鋭く反駁した。その剣幕に唖然とすると、少し気まずそうな顔で咲希は目を逸らした。
霧雨はだんだんと止み始めていた。
「……向こうに、りぃちゃん……里菜子を待たせてるの」
「里菜子? もう外出して平気なのか」
「大丈夫みたい」
里菜子というのは、りぃちゃんという呼び名の通り、咲希の親友の女の子だ。唐突に意識不明になり一週間ほど入院していた。ただ、噂に聞くところによると、入院前と退院後でまるで人が変わったようだというけれど。
「じゃあ、里菜子を放ってここで何を?」
「あと少し……あと少ししたら、戻るよ。喧嘩、しちゃったんだ」
「喧嘩?」
「りぃちゃん……心を失くしちゃったみたいに、ぼうっとしているの。わたしが何を話しかけても答えてくれない。わたしのことを見てもくれない。……忘れちゃったのかな。長い間眠って、わたしのこと」
今なら分かった。また溢れ出したのは、透明な涙。歩き疲れた迷子のような顔で、咲希はもう一度空を仰いだ。
僕は口を噤んだまま、立ち尽くす咲希と七歩の間を空けて、間抜けに突っ立っていた。咲希の視線を辿るように、曇った空を見やる。同じ色をした心が、悲痛に軋んでいた。一体何が出来たのか。何をしてあげられたのか。咲希の為に何か、したかったのに。
「その……咲希……」
震える唇を開くと、情けない細い声が漏れた。
その声が聞こえたからか、それともまた別の要因があったのか、咲希は苛立たしげに首を振った。それから、疲れ切った大人のような目で僕の事を見ると、小さな声で言った。
「ごめん。何でもない。……わたしもう行くよ、明人」
咲希は苦く笑うと、僕に背を向けた。
途端に、夕立が降り出した。
霧雨よりもずっと冷たく、痛い雨だった。激しい音の中に取り残された気分になった。
「……好い雨だね」
咲希は背中越しに少し振り向いて、そのまま降り続く大粒の雨に顔を向けた。ぼたぼたと咲希の表情を搔き消していく雨粒は、涙と混ざってまた違うものへと変質していく。
「雨が好きなのか?」
遠ざかる前にその背中に届いたのは、僕のそんな問いだった。
「…………」
咲希は驚いたような顔をして僕を正視した。それから、数拍の間をおいて小さく笑った。
「そうだね。好きだよ。だって」
泣き出しそうな笑みだった。
涙に狂ってしまいながら、雨色の瞳が揺れていた。
「だって、雨は隠してくれるから」
わたしの辛さも。強がりも。こんな弱さも。
そう言い残して、今度こそ咲希はもう足を止めなかった。七歩だった空間が八歩、九歩、もっと遠くなる。
雨色ノイズの中に置き去りにされた僕は、その背中を見送った。胸の中に雨よりもずっと深い空虚が居座っていた。いや、その空虚は無力感とも言い換えられるものだったかもしれない。
僕は君の力になれないな。
僕は君の悲しみにもなれないな。
このまま雨に溶けて居なくなっても誰も気付かなくて、きっと咲希も知らん振りをして。
夕立の勢いが増した。肩に叩きつけられたその雫が、感情やら意識やら記憶やらをめちゃめちゃに混ぜて、視界をぐちゃぐちゃに壊していく。この目を潤ませているのは一体何だろう。
誰の為に行く?
それとも誰の為にも行かないのか。
ここで立ち止まったまま、雨の中で、自分を見失って消えて。
それともすべては自分の為なのだろうか。
誰かの為になりたがることこそが、自分の望みならば。
追いかけようか、と考えた。この公園の中に、少なくとも里菜子がいる。幾ら自分を忘れたような里菜子に愛想をつかせたとしても、車椅子の彼女を置いて帰るような真似はしないだろう。だから、里菜子を探してその傍で待てば、きっと咲希に会える。
でも、咲希に会ったとして自分は何がしたいのだろう?
何が出来るのだろう?
支えるには足りなかった。頼ってもらうには脆すぎた。手を伸ばせば払われた。
世界は、僕の事を必要となんか、していない。
たとえばこんな僕が居なくなって誰かが笑うなら。
たとえば消えた僕を誰かが憎むなら。
そんなのもいいかもしれないと思う。少なくとも、悪くない。誰かが笑うなら。誰かが泣かないでくれるなら。こんな自分が誰かに影響を与えられるのなら。それはとても素敵なこと。
僕はしばらく夕立の中で、考えていた。
咲希の為に何か。だけど。いや。それでも。しかし何が出来る。何も。そんなことはない。探せ。探せ。探せ。
頭の中が雑然としてまとまらない思考が弾けた。
多分この雨が浮かび上がらせてくれた。頭が冷えたと表現するのが正しいのだろう。本来人が隠しておくべき醜い心の奥の奥。
手遅れになる前に。自分を見失う前に。この無力感に酔う前に。すべてを投げ出してしまう前に。
探せ!
そして僕は決めた。
遣る瀬無いこの無気力感も、甘い諦念も、箱に詰まり切らなくなった哀情でさえ、どうだっていい。
世界と僕の正義が違うなら。幾らでも正義の潰し合いをすればいい。
自分の為に、誰かに手を差し伸べようと走る。それが独り善がりな僕の正義。僕の為だけの正義。
「咲希! 待って!」
震えていた声は芯を取り戻して、雨音の中を貫いて響いた。
これが正しいのかどうかはわからない。決められない。自分が何をできるのかさえ知ったことではない。
それでも今ここで立ち止まったのなら、きっともっと後悔するのだろうと、そんな気がして僕は走り出した。
雨色夕立日和、優しい光がどこかで瞬いた気がした。
了