とこやみのくににて by.福江てん

2016年11月02日 16:33

                 福江てん    

「妃よ。何か欲しいものはないか」

 青白い床の波の中にうつ臥す妻に向かって彼は言った。

 それは、何千回もの冬を共に過ごしても尚捕えられない彼女に対し、彼が毎日のように言ってきたことだ。

 地上世界が冷たく荒れている間、どんなにその体に死の跡を遺しても、草木の萌え出る時が巡って来ればかの(ひと)は春と花の香気を満たしに母のもとに帰ってしまう。

「何でも申してみよ」

 光の滝のような髪にそっと手を伸ばし撫でてやると、白い肩が明らかに強張った。彼は手を引く。

「――欲しいものなど、ございませぬ」

 あえかな絹糸のような声が、残響のように白い波の中に沈んで消えた。沈黙が落ちる。――彼はそうか、と呟いた。

 どんなにかの(ひと)を愛そうとも、どんなにその白い身を自らの闇で浸そうとも、かの(ひと)は彼から渡されるものすべてを拒絶する。甘くて昏い贈りもの全てを。

 夜露に濡れる花弁がその雫を弾くように。

「――よく休め」

 また来る、と続けて呟いて彼は寝台から立ち上がった。衣を纏って緞帳の外に灯した短くなった蝋燭を手に取り、新しい蝋燭に火を移して活ける。仄かな光が溜め息に揺れる。短い灯りを携え寝室から出ようと歩み出す。

「何故」

 彼は足を止めて振り返った。天蓋の内を抜け出た妻が、すうと佇んでいた。濡れた瞳は彼をじっと見つめる。やわらかな頬の輪郭が、火花を散らして引き締まっている。

 玉細工のように鋭い。

「何故、わたしに名前をお与えになったのです」

 発作のように息を継いで。

「何故、わたしから、わたしの母がわたしにつけた名を奪ったのです」

 彼は大きく目を見開いた。常に憂いを湛えた黒い眼は、暗闇に浮かぶ白い体を捉えた。

「――私は、そなたに相応しい名を与えたつもりだ」

「本気で仰せですか」

「無論」

 間髪を入れぬ問いに彼はゆっくりと答える。手元の蝋燭が尽き、脂の焦げる臭いが部屋に広がった。光源をひとつなくした室内で、女の瞳が強く光った。

「ああ、残酷な方よ! なぜわたしをペルセフォネー(冥府の支配者)などという名でお呼びになるのです! 光と雨と、土の恵みの申し子である私に――!」

「妃よ、」

「呼ばないで!」

 女は我が身をきつく抱いた。樹液のような涙が溢れ出す。

「わたしは貴方のものにはならない。ならないのに! 母のもとへ帰して!」

 女は金の髪をさっと翻すと寝台に身を投げ出した。泣き声が奔流のように迸る。

 

 彼は皺の刻まれた口元に悲しみを宿して、「おやすみ」と重々しい声で声をかけ、寝室を後にした。

 火の消えた燭台を携えたまま。

 

 

(貴女を傷つけたいわけではない)

(むしろ、誰よりも大切にしたいのに)

(貴女は地上の方が良いと言う。孤独な私を憐れんではくれない)

 

(ペルセフォネー――吾が『目も眩むような光』よ)

                      Fin.