とこやみのくににて by.福江てん
福江てん
「妃よ。何か欲しいものはないか」
青白い床の波の中にうつ臥す妻に向かって彼は言った。
それは、何千回もの冬を共に過ごしても尚捕えられない彼女に対し、彼が毎日のように言ってきたことだ。
地上世界が冷たく荒れている間、どんなにその体に死の跡を遺しても、草木の萌え出る時が巡って来ればかの女は春と花の香気を満たしに母のもとに帰ってしまう。
「何でも申してみよ」
光の滝のような髪にそっと手を伸ばし撫でてやると、白い肩が明らかに強張った。彼は手を引く。
「――欲しいものなど、ございませぬ」
あえかな絹糸のような声が、残響のように白い波の中に沈んで消えた。沈黙が落ちる。――彼はそうか、と呟いた。
どんなにかの女を愛そうとも、どんなにその白い身を自らの闇で浸そうとも、かの女は彼から渡されるものすべてを拒絶する。甘くて昏い贈りもの全てを。
夜露に濡れる花弁がその雫を弾くように。
「――よく休め」
また来る、と続けて呟いて彼は寝台から立ち上がった。衣を纏って緞帳の外に灯した短くなった蝋燭を手に取り、新しい蝋燭に火を移して活ける。仄かな光が溜め息に揺れる。短い灯りを携え寝室から出ようと歩み出す。
「何故」
彼は足を止めて振り返った。天蓋の内を抜け出た妻が、すうと佇んでいた。濡れた瞳は彼をじっと見つめる。やわらかな頬の輪郭が、火花を散らして引き締まっている。
玉細工のように鋭い。
「何故、わたしに名前をお与えになったのです」
発作のように息を継いで。
「何故、わたしから、わたしの母がわたしにつけた名を奪ったのです」
彼は大きく目を見開いた。常に憂いを湛えた黒い眼は、暗闇に浮かぶ白い体を捉えた。
「――私は、そなたに相応しい名を与えたつもりだ」
「本気で仰せですか」
「無論」
間髪を入れぬ問いに彼はゆっくりと答える。手元の蝋燭が尽き、脂の焦げる臭いが部屋に広がった。光源をひとつなくした室内で、女の瞳が強く光った。
「ああ、残酷な方よ! なぜわたしをペルセフォネーなどという名でお呼びになるのです! 光と雨と、土の恵みの申し子である私に――!」
「妃よ、」
「呼ばないで!」
女は我が身をきつく抱いた。樹液のような涙が溢れ出す。
「わたしは貴方のものにはならない。ならないのに! 母のもとへ帰して!」
女は金の髪をさっと翻すと寝台に身を投げ出した。泣き声が奔流のように迸る。
彼は皺の刻まれた口元に悲しみを宿して、「おやすみ」と重々しい声で声をかけ、寝室を後にした。
火の消えた燭台を携えたまま。
(貴女を傷つけたいわけではない)
(むしろ、誰よりも大切にしたいのに)
(貴女は地上の方が良いと言う。孤独な私を憐れんではくれない)
(ペルセフォネー――吾が『目も眩むような光』よ)