「ai」 presented by 紅葉
ai
紅葉
それは青く白く、ぼんやりと滲む羽の記憶だ。
とても透明。
とても悲しい。
とてもこまやか。
すっと強い羽は、目の前でしなって広がってゆく。
そしてその光景は、胸の中に、冷たくしんとした水が染み込んでくるような気分にさせた。
胸にいっぱいに満ちた冷たい水は、瞳からあふれて、零れ落ちていった。
指先まで冷たい。
頬に伝う雫も冷たい。
何もかも、冷たく透明になってゆく。
――――それはきれいな、哀の記憶。
不思議な目をしている子だなぁ、と思っていたら、やがて僕は、その子には世界が違う風に見えていることを知った。
色、音、風、匂い、空気・・・そういった曖昧なものが好きな子で、いつだって飽きもせず、窓の外をぼんやりと眺めている子だった。
その子はそして、『カタチのない何かをカタチにする』その手段として書くことも好きらしかった。だからいつもその手元には、F5サイズのスケッチブックがあった。
僕の病室の、隣にいる子だった。
「だから、別に本気で出ようなんて思ってないって。」
「そりゃそうだろうね。」
朝から僕は、ネイの寄り掛かる白いベットの横で口をとがらせていた。思わず即答してしまったのだ、だってネイが―――また訳の分からないことを言うから。
「でもね、いいなって思うんだよ。だって誰もいなくて、広くて広くて、きっとすごく濃い青の空が、鏡のかけらみたいな星を湛えてるって思うと・・・。」
「それは、確かにきれいだけど・・・・・・。でも、でもさ、そこで君は、たった一人なんだろう・・・?」
言いづらくて先細りになってしまった自分の言葉に、僕がむしろ赤くなった。ネイはそんな僕を見、真っ白な歯を淡い色の唇からわずかにのぞかせてほほ笑んだ。
「人っていつも一人じゃないけれど、人はいつでも誰かにへばっているわけでもないじゃない・・・その時は、きっと一人でもすごく満ち足りた気分になると思うよ。」
何ならヒロも一緒に来る? とネイは平気な顔をして言う。
「人が一人じゃないのは、必ず心のどこかで、誰かの体温を覚えてるからだ。」
その平気な顔が癪で僕は言い返し、その拍子に二人はしばらく黙り込んだ。
朝っぱらから妙な喧嘩をはじめてしまった僕らを、白い朝日、白いシーツ、白い壁―――何もかもが清潔でつんとした薬の空気の匂いをふくみ、けれどその白も空気もどこか鬱々とした静かなよどみを湛えているようなまっさらなものたちが―――、見守っていた。
奇妙なほど、静かな空間だ、と僕はぼんやり思っていた。
「そうだね。」
やがて、吐息とともにネイが呟く。
「さみしい、ね・・・僕は、」
「いつもうっかり、それを忘れそうになってる」
僕たちは顔を見合わせて、また何も言わなかった。
ネイのささやき声は、僕の心の中のうねりを少しだけ拭い去っていった。
「でも、僕たちはこうして時々気づくよね。」
それはきっと、こんな白くてくだらない空間にいる僕らだからこそ、だったけれど、わざわざ言わなくてもネイはよくわかっていた。
「・・・ヒロがいてくれて嬉しいよ。」
やああって、ネイはまたあのインチキの笑顔を見せ、それで僕らの間に病室の清潔なよどみはしばらく遠のく。
ネイと僕はすぐに笑い出して、ネイのスケッチブックに落書きをして遊ぶ。そうしてすぐに消えてしまうほどちょっぴりの呼吸を、この虚空の中に溶かしている。
単純なことだ。
とても、単純なことだ。
僕たちはまだ、生きている。
ネイが、空や、森や、川や、泉の話を幻想めいた瞳の色で語るのはいつものことだからもう慣れっこだった。
ネイは、本当に行けるかどうかもわからないその美しい願いを語るのが好きだったし、僕は僕でネイのそんな情景を一緒に想像して隣に並んだ気分になるのは好きだった。
「天の川を見ながら、指先や、足の先からだんだん冷たくなっていくんだ。」
ネイは特に、地平線だけが薄青い、宇宙のような深い夜の空がお気に入りだった。
「その下にはきっと、星屑をうつしてたなびく、青いにおいの草むらがひんやり広がるんだ。」
「僕らはそこに溶け込んで、ずっと見上げてるんだね。」
そう、体中が〝そら〟になるまで。
ネイが言うことは、とても素敵で、とても悲しくて、恐ろしいことだった。
ネイのそばにはいつも死があった。
この世とは隔離されたように、白と清潔なエタノール、鬱・・・そんなものの中で過ごす僕らには、体温なんてもうほとんど残っていない。かろうじてあるのは自分たちのただ一つの灯と、僕にはネルが、ネルには僕がいる、それきりだったのだ。だから、ネイの言う煌々とした空や、だんだん自分の中にもそれを取り込んでゆく、ひたひたの水のような冷たい死は簡単に想像できた。そんな時、たった二人きりでこの世のあいだをうつらうつらと漂う僕らには透明な羽が生えた。
「ちゃんとあの空の淵の、ずっと奥へいくよ」
午後も過ぎて、まだその話をしていた僕らだったが、そのうちネイは口の端を緩ませたまま寝入ってしまった。
「本当に行ったとして・・・」
僕は無性にさびしくなってしまい、また不用意にも口に仕掛けた言葉を飲み込んだ。
温もりは、本当に生きるために必要なものなんだな。
自分で言っておいて、僕はいまさらのようにそう考えた。ひとかけらの温もりもなしにに生きて行くことなんて、できるはずがない。
ネイの言う、「ネイの望み僕の望む死」を想像するたび、まだ生きていたいらしい僕の胸はひゅっと緊張する。
いったい僕らはいつ死ぬんだろう。
ネイにはもう怖いものなどないのだろうか。
あるいつものお昼時、ガラス越しの鳥の声が騒がしい。
いやに明るい日差しが差し込む部屋でいきなり咳き込んで、僕はサンドウィッチを吐き出していた。
「ヒロ!ヒロ。大丈夫・・・?」
うすいベージュのカーテンの向こうから、ネイが気がかりそうに問いかけた。
自分のベットの手すりにすがってひとしきりサンドイウィッチを吐き出した僕は、やっと笑って答えた。
「大したことないよ。でもせっかくの白いシーツがサンドウィッチ風味になっちゃったね。」
「馬鹿なこと言ってないで。ちゃんと全部吐き出したね?」
「うん。―――この間のイチゴジャムみたいだったネイより全然ましさ。僕のはまだ反吐団子だから。」
それでやっとネイも笑った。
「ナースを呼ぶよ。」
ネイも僕も、時々白昼夢にいざなわれていた。
吐き出したサンドウィッチは、無口な瞳をしたナースがあっという間に片してくれた。僕はしばらく安静にしていろ、とお医者様にちょっぴり脅されたので神妙な風をしていたけれど、それでも心の内では、自分なんてネイの体に比べたらどうってことない、と思った。
ネイはもうずっと前から、食べ物を口に入れることなんてできなかった。その舌は、サンドイッチはおろか、お茶のあたたかさすら受け止められなくて、水の澄んだ味も知ることはない。この間ネイが吐いた真っ赤なイチゴジャムは血だった。
いつだったか、その白い腕につながるうす橙の管をじっと見つめていたネイがふいに、これをちぎったらどうなるだろう?なんていって、僕は冗談じゃなく頭の血管を切りそうになったことがあった。僕は朦朧と真っ赤になって、ネイは珍しく真っ青になった。
後々ネイは謝ってきたし僕も承諾したけれど、そう、ネイよりも僕はずっと怖かったのかもしれない。
ネイがあまりにあっさりと希薄な表情で、また唐突にそういうことを言うから、僕がむしろネイの何十倍も怖かったのだ。
ネイは本心から、そんなくだらなくて恐ろしいことをいう。くだらないと思うことなく、心から思った上で。
ネイがあの細い大切な管を切れば溢れてくる、さらりとした橙の液。僕の手にそれが伝う感触を、ネイの白い肌にそれがしたたる様を、僕はありありと思い浮かべてしまう。
「ヒロ。」
ふと、ネイが言った。
「死ぬことと、生きることと・・・どっちが鬱陶しいかな。」
「・・・・・・。」
僕が答えに窮したわけは、ネイにはきっとわからなかっただろう。ベージュのカーテン越しに、ネイは黙って待っていた。
ちょっとためらった僕は、やがて吐息してネイを見据えた。
「ネイは、生きることが鬱陶しいの?」
「どっちでもいいんだ。」
思いがけず早く帰ってきた返答だったけれど、全然、僕はこれを予想済みだった。
「どっちでも、いい・・・・・・。それで、これはね、きっと二択問題じゃないんだ。」
「―――ネイには、何が一番鬱陶しいの?」
「・・・・・・。」
ネイが、僕の横で返答に困っている。
たったそれだけの事実はなぜかしら、僕を冷静にさせた。
「ヒロといるのは、楽しいんだよ―――。」
「僕もさ、ネイがいてくれてよかったと思うんだ・・・。」
結局、お互いにそんなことしか言わなくて、ネイは心もちさみしげな笑い声をたてた。
僕たちはそのとき全く、本当のことは言わなかった。
当然だ。
今ここにあるのは、真っ白によどむ生と、無知にぽっかり抜けた死、そして何も知らない僕たちだけなのだから。
僕たちの白昼夢は日増しに、数を増やしてゆくようだった。
あるとき、白昼夢に鴉がやってきた。
黒い翼を美しく光らせて、鴉の思いは僕に分かった。
不思議だね。
君たちは互いに欲している。
―――何を?
ただの一度も、触れたことがないもの。
ただの一度も、感じたことのないもの。
不思議だ。触ったこともないものなのに、君たちはそれが欲しいんだね。
―――何の話だい?
君たちにはそれが必要なんだね・・・。
ゆらっと、鴉の飛ぶ背景が変わった。
鴉が、低い低い声のような重たい思いをよこす。
君はあの時、また恐れていたんだ。
あの子の口から、〝生きることが鬱陶しい〟と聞くことをね。
また何百回目かの朝になれば、無口な瞳を瞬かせながら、あの看護師が僕たちの部屋のカーテンを開けに来る。
やがて、強烈な朝の光が視界を消し飛ばした。
「ネイ・・・・ネイ・・・・」
ネイはいつものインチキな笑顔を浮かべて、波打つ草むらに横たわっていた。
僕はその隣で、ぼんやりとその顔を眺めていた。
「涼しいね。」
ネイは、本当になんでもない風に言った。
草むらは時々、さわさわと鳴って、懐かしくなるような夜の風の匂いがした。
空には星の川が流れていた。
大地の抱えるひそかな息吹たちを、僕は初めて聞いた。
「本当に落ちちゃいそうだよ・・・」
眺めるほどに空は深く、濃ゆい藍色をしていた。
その端にゆくほどに、色はぬける群青になっていた。
目を閉じたネイの頬に、深緑の草が揺れた。
「ネイ。」
かかえあげたネイの体は、だんだんと、空や川の水を取り込んで、冷たくなってゆくようだった。
指先からネイの体温は抜け出て行って、風に溶けてしまう。ネイは溶けて行ってしまう・・・今の僕は、やっといろんなことを理解し始めたようだった。
いやというほど知っていた、この死の感覚―――。
そして、冷たく浄化されていくその感覚とは逆にあった、もう一つの感情。
僕はいつもネイに言っていた。生きるのには体温がいる、と。
鴉はあのとき夢にあらわれて告げた。
僕たちに必要で、
僕たちは触れたこともなくて、
僕たちが欲しているものがある、と。
「ねえ、ネイ。」
「・・・うん?」
「いま、君は満ち足りてるんだね・・・?」
ネイは、声をたてて笑った。
「そうだよ。」
ネイに、羽が生えていた。
僕たちが、生と死との間を微睡んでいるときより、もっとくっきりはっきりした、大きな羽だった。
「僕と、ネイが生きるのに必要だったのは、アイだよ。」
口に出して、僕ははっきり哀しさを感じた。
ネイが消えてしまうことの恐れと、哀しさと、何より死の冷たさを思い出して、ひどく哀しくなった。
「満ち足りた死は、いいことだよ・・・。」
ネイは言った。
「僕が死ぬのは、生から死に僕を突き落とすものがなくて、死より生に僕を引き留めるものがなかったからだよ。」
僕とネイの心の音が、長く青く、共鳴しているようだった。
ネイがもし生きたかったならば、誰かから思いをもらうべきだった。
僕も、生きるなら誰かから思いをもらうべきだった。
ぼくとネイをつないでいたのは共鳴であって、愛ではなかった。
ただ一人のネイは、僕よりずっと鬱々としていたネイは、その虚空の先に満ち足りた死を見つけたのだ。
「ねえヒロ。」
「なあに。」
「―――あそこから出れて良かったよ。あんなに鬱々してたところから・・・」
「・・・そうだね。」
僕は初めて静かな涙をこらえて、広々としたその空の下、ネイを見送った。
心にしみわたる哀は僕に冷たい痛みを残した。
いつまでも、羽の残像とともに。
後書き
曲の力って絶大ですね・・・
締め切り間近の深夜帯、私の精神ゲージが吹っ飛ぶのを阻止するために、お力添えをいただきました(笑)
さて、この物語の登場人物、ネイの性別と一人称が出てこなかったことに皆さんは気づいたでしょうか?
最初はおきまりの「少年×少女設定」にしようかとも思ったのですが・・・
ハートフルみたいにしたくなかったんです!
ヒロは少年設定ですでに決定だったけど、仮にネイを少年にしたとして少年×少年でもちょっと何か違うよなあ、と思いました。悩んだ末に、ネイに一人称を使わせるのをやめて、少年か少女か、にはあえて触れませんでした。後々後悔しましたけどね! 大変だったのです(笑)
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・・・はい。改めましてこんばんは、紅葉です。
この作品は去年の部誌に載せさせていただいた「テーマ:羽」の作品です。上のそれはその当時のあとがきそのままを載せておきました。
まだこのサイトの編集に慣れていないので練習も兼ねて、過去のやつを引っ張りだして載せてみた、というわけなのです。
この当時の作品は吉本ばななさんや、サン・テグジュペリ「星の王子様」に影響を受けていたころなので、ちょっと幻想じみた感じです。そこそこ気に入ってるかな? という作品なので、ぜひ部誌を直接手にとれない方にも読んでいただけたらなあ・・・と。(いえ、実は遠方の友達などから、「ねえ(モノフォニー)編集してるの?」とか言われちゃったのでいい加減・・・ね(笑))
余談すみません。
そろそろ部活も世代交代の時期です。
私たちの学年でも、今までと同じように精力的に活動できたらいいな、と思います。読んで下さった皆さん、ありがとうございました!