「ダーク・ミスト」 presented by 三坂 詩乃
両手で水を掬い上げる。
水面がたおやかに揺れていた。映りこんだ黒瞳がゆらゆらと歪む。自分の顔の造形を忘れてしまいそうになる。差し込む木漏れ日に鏡面は金色に照り映えて、こぼれ落ちたそばからつうと腕を伝う。つめたい。皮膚はぴんと張って滴の一つ一つをはじき、掴まれなかった水玉は散り砕けてすうと吸い込まれていった。
涙がそこに溶けたって、誰も気づきやしない。当たり前の話だ。
びちゃびちゃと床に垂らしながら、外へ駆けだした。あの子が待っている。黒くて純粋で無垢で、神の愛から切り離された小さな猫が。
私の足音を聞きつけたのか、にゃあおと一声、それから一直線に向かってくる。
「おいで、イア」
足元までやって来た仔猫は、手のひらの隙間から染み出す水分に舌を伸ばした。器の下のささやかなそれより、この手の溢れそうな水を思い切り飲ませてあげたかったが、イアは綺麗に舐め取るまで満足しない。ようやく一、二歩退いたのを見て、手首を下げる。水面を割って顔を突っ込んだ黒猫はぐぐっと喉を鳴らした。
イアは、人が好きだ。こんな蕭条とした森の中でも、すぐに懐く。寂しがり屋なのだろう。このわずかな体温にすり寄って、呼吸を続けていられるようにと分け与えを請う。にゃあ、にゃあんと必死に啼き声を響かせて冷淡なしじまを掻き乱す。
同じ場所で暮らしていながら、私がこの森閑とした場所を好むのは反対の理由だった。誰にも出会わず、ただ一つの涙も流さないため。だから、イアに出会ってしまったことは計算違いのことであったのだが――恐怖や寂寥ばかりは人並みに残っていたこの心に、少なくとも生を諦めない程度の糧を注いだのはこの子だった。嫌いだったのは人間であって、鼓動を打つ他の全ての存在ではない。そう気づいた木陰で、私はこの小さな仔猫を思い切り抱き締めるという賭けに出た。嫌われたならそれでいい。孤独には慣れている。しかしもし傍に居てくれるのなら、私はこのちいっぽけな自分の体温にだけ縋っていなくても、まだ空を見ていられるとそう思ったからだった。イアは私を拒まず。それから自然と、気ままな黒猫の気分に合わせて、ここを訪れてくれるようになった。
対照的な私たちは、独りきりが嫌いな所だけ似通っていた。だからきっと、傍に居ても苦しくなかったのだろう。ふわふわした毛並みがとても清らかなものに思えて、見つめている間だけは汚れきったこの心の穢れが払拭されていくような気がした。イアは黒い翼を持った天使だった。
やがて仔猫は顔を上げて、ぶるぶると毛に沁みかけた水を振り落とした。まだ少し飲み残しがある。ちらとその目を見ると、にゃん、と鳴いた。それを聞いて、両手を少し離す。抱えていた水は淋漓として地面に消えていく。
「ねえ、雨が降りそうよ」
空模様は芳しくなかった。私は服の裾で手の水気を払うと、イアを抱き上げる。柔らかくてあたたかい。手を添えた場所が良くなかったのか、イアがわずかに身をよじった。ごめんね、と囁くとその吐息に少しくすぐったそうな顔をする。
その日私は初めてイアを家に連れ込んだ。きっとこの森の手入れをしていたかつての住人が建てたのだろう、人ひとりが寝泊まりするには十分な広さのログハウスだ。ここで暮らし始めてからそろそろ一年が経とうとしているが、自然の恵みを譲り受けながらの生活は素朴で抒情的で、筆舌に尽くしがたい感慨がある。端的に表せば、私に合っていた。
それまで目にしたことのない場所へ放り込まれた猫は、不安そうにうろうろと歩き回って、落ち着かないようだった。私が手を差し伸べれば近づいては来るのだが、少し怯えた風なところがある。膝の上に抱え上げゆっくりと撫でつけると、いつもの温度が少し遠のいたような気がした。それは、イアが見せる恐れが小さな隔絶を感じさせたからだったのかもしれない。
言葉通り雨が降り出して、玻璃に滴るのを眺めた。ペパーミントティーを淹れて、部屋に忍び込んだ冷気とそれでかじかんだ指を丸ごと熱で包む。鮮烈な香りが立ち込めて胸がすうっとした。一口啜って目を瞑る。お気に召さなかったのか、イアは身じろぎして逃げ出したがったが、その芳香が部屋中に廻った頃には慣れたらしく、くうくうと寝息を立て始めていた。
夕暮れは見えなかった。世界が夜の色に変わった頃、雨も止んだ。ふくろうが歌っている。草陰で羽をこすり合わせる虫たちがいる。風が森中を吹き鳴らしている。耳を心地よく誘い出して、外へと手招きをするのに、抗おうという思いは始めからなかった。
立ち上がるついでに座っていた椅子へイアを移す。少しばかりはこの体温の残滓が守ってくれるだろうと。イアは眠たそうに目を開けた。私は微笑みを残してひとり、戸を開ける。
灼爍と空を飾る星々は、闇に慣れた網膜を貫いた。煌々と光を降り注ぐ月は尚更だった。この眼が使い物にならなくなる、と焦燥するほどに目を焼き、その美しさに焦がれずにはいられなかった。それでもやはり、森の中から見上げる空は木々の先端が象る線で切り取られ、夜の玲瓏とした景色を楽しむにはそぐわない。
どこか、遠くへ行こう。いつか誰も居ない場所を捜した、あの日のことを想い出せ。優しい草むらの抱擁に身を委ねてひたすらに空を仰げ。そうして星の海の中に沈んでしまうんだ。涙の一欠片も見えないほどに溶けてしまえ。
きい、と蝶番の軋む音がして私は振り返る。尩弱な心に引きずられるまではまだいい。どうやら呑まれてしまっていたようだ。閉め損ねた扉の空隙からイアが顔を出す。足元へ走り寄ってくると、くるくると回ってしっぽをふくらはぎに擦り付け、それからその頬をすり寄せて甘えた声を出した。そこで自分の四肢が冷え切っていた事に気付いた。
「……星が綺麗ね。付いて来て」
宛てもなく歩き出す。少しの間隙も無くイアは私の足元を辿った。
どこかへ。そう、此処へ来る前に聞いた事がある。
『星がよく見える丘があるんだって』。
そこへ行くんだ。
月影に照らし出された森の小路を抜けて。
草を蹴立てて驚かせた、寝入りばなの小動物たちに詫びながら。
ようやくそこへたどり着いた頃、上弦を少し過ぎたくらいの膨らんだ月が頭上にあった。
斜面に寝転ぶ。透き通るように青い原っぱだ。夜空を落としたようだった。
そしてその夜空が、視界いっぱいに広がっていた。
闇色の海に浮かんだ星々が、忘れられない思いを去来させる。確かに記憶の中で、違った星座の並ぶ果てしない夜空を、ふたつの体温と共に見上げていた。自分が失ったすべてが、かつてそこにはあった。この胸の深い深い所に、他の役に立たない思い出とともに仕舞い込んでしまったと思っていた。鍵をかけて、その鍵は力ずくでひん曲げ、もう二度と開かないようにと何度も心に祈って。
しかし、どんな想いもそれを一番強く焼き付けた世界には敵わないようだ。
もう二度と泣かないための孤独が、また違う涙を呼び覚ました。
イアが私の上に飛び乗り、胸の上に前足をついて、私をじっと見つめた。濡れて光っていたのだろうか。眦を離れた涙は重力に引かれて耳の方へと流れていく。やさしい黒猫は頬に伝った雫を舌で掬った。そのまま、熱を帯びた舌で何度も私の頬を舐めつづけた。
後から溢れ出る涙。脳裏で笑った誰かの影。もう二度と取り戻せない笑顔と、涙と、悪戯と。
そうだ、全部”そう”だった。分かり切っていた。知っていながら、言葉にできなかっただけだ。
ねえ、そうでしょ。
「――全部、君のせいだ」
ここに君が居てくれたなら、私はイアの体温なんて必要としないで済んだけれど。
その澄み切ったイアの体温だけでいい。もう君は要らない。
独りきりはもう嫌なんだ。高望みなんてしないから。
イアだけは、此処に居て――
その漆黒が闇色に染まって見えなくなってしまわないように、ぎゅっと抱きしめた。
了
-あとがき-
どうも、三坂詩乃です。頻繁に更新しているせいか、何だかすごく私の名前が目立っていて……恥ずかしいんだか気まずいんだか、といった気分です。
前回「ソライロカナタ」に続けてまたSSSを書いてみました。締切日に欠員が多くて印刷が開始できなかったからですね……ちなみに、部活内で書ききった「ソライロカナタ」に比べて、この「ダーク・ミスト」の方が時間の実証が出来ない状況にあります。今回のは部活が終わる20分前に思い立ったせいで、部活では6分しか書いてなかったです。家でストップウォッチをつけながら、満足いくまで書いてみると1時間2分で書き終わりました。
最近発想が暗いものに落ち着きがちでちょっと困りもの。今回は水と猫の発想ありきで書き始めてみましたが、途中からは最近知ったばかりの言葉をいろいろと使ってみたいというのが優先になっちゃいました。蕭条、淋漓、尩弱などなど……メモが増えていくばかりで、そろそろ使えるかどうか試さないとな、と思ったんです。
ちなみにタイトルの「ダーク・ミスト」ですが、三坂が英単語をカタカナ記述したところから勘付く人もそろそろ出てくるはず。「dark mist」と「dark missed」の掛詞です。「黒い霧」と「闇が失われた」といったところ。霧ということで水に絡めた黒猫を示唆したかったのが前者、主人公の「私」がかつて見た、もう戻らない思い出の中の夜空を示唆したかったのが後者です。どちらも兼ね備えなければこの物語のカタチは見えない訳で……無粋ですが、あとがきでお話しさせていただきました。
……考えないで書くと本当に長くなりますね。あとがきは後付けなのですが……そろそろやめないと見づらくなりそうです。それではこの辺で。