月兎ノ哀歌

 

 木立から漏れた月影がボクを照らそうとする。

 光の隙間を飛び移るように陰に足をつけ、ついた傍から蹴り出してひたすらに体を前へ。

 少しよろけた。バランスがとれない。黒ずんだ土の上に転がって、息を切らせた。それでも止まれない。強引に体勢を整えると、駆け出しながら空を仰いだ。

 千切れた雲が夜空にたなびいて、月の海を隠している。月光は灰白色の層をすり抜ける間に散り分かれて、森は闇の中に沈む。

 赦されるのは今だけだ。地表まで届く冷たい黄金色の光帯はいわばサーチライト。無声の警報が鳴り響き、瞬時に追手を招き寄せる。だからボクは――

 ――夜を駆ける。

 急がなきゃ。見つけ出される前に、月が微笑む前に、――終焉が訪れる前に、あの子の元へ行こう。

 

 - CQ; CQ; CQ -

 誰カ気付イテ。

 - I: CQ CQ -

 見ツメナイデ。

 - CQ; I CQ -

 見タクナイヨ。

 - I CQ CQ -

 聞コエナイノ。

 

 これは新月みたいに優しくて、満月みたいに残酷な夢の物語。

 無粋で滑稽で華々しいボクの最低の演技を、全力で哀しんで!

 

 * * *

 

「「嘘つきウサギが来たぞー!!」」

 ボクの来襲にてんやわんやの大騒ぎになっている眼下を見下ろして、ボクは内心ほくそ笑んだ。

「盛り上がっているようで何より! 毎回歓迎ムードでボクはうれしいよ、ホント」

「よくもそんなことが言えるよなっ……いいから早く帰れ! あ、ほら、みんな大事な物は隠すんだっ」

「遅い遅い。まあ、もう十分待ってあげたろ? さあ、ゲームを始めようか!」

 ボクは森の中で一番高い木の上から、夜色に広がる闇を一切気にかけずに飛び降りた。着地の衝撃を両足で殺して、とん、という軽やかな音を一つ響かせ、そして滑るように走り出す。うん、悪くない。悪くないけど……少し動きが鈍っただろうか? ボクは頭の片隅で事実を無感動に確認しつつ、森の住人――キツネやリス、タヌキや野ネズミの間を颯爽(さっそう)と駆け抜け、彼らが大事そうに抱えていた木の実だの、がらくただのを掠め取った。

「あ、あーっ! 返してよ!」

「悪いね、今日もボクの勝ち。それじゃまた、次の夜に」

 木の実の一つを器用に頭にのせ、くるりと一回転。慇懃(いんぎん)無礼なお辞儀までキメて、ボクは両手いっぱいの間抜けな宝物を抱えたままその場を去る。後ろから非難の声が殺到するが当然無視。宵闇を潜りながら、返せというご希望通り、宝物を徐々に落としてあげることも忘れない。別に物が奪いたくて遊びに来たわけじゃなかったからだ。

 最後に手に残ったのは、小さな木の実だった。クヌギの木に()るそれだ。一口かじってみる。あまり美味しくはない。ただ、その味を感じられることに、自分の存在を確かめられた気がしてほっとする。……ほっとしている自分に、少し驚いた。

 ボクに名乗る名前はないが、森の住人達はボクを『嘘つきウサギ』と呼ぶ。彼らにしてみれば突拍子もない事ばかりのたまっているせいだろう。ボクは彼らの反応が面白くてたびたび遊びに来るのだが、毎回悪戯しているからか嫌われてしまったらしい。

 ボクは食べかけの木の実を放り、遠く聞こえるオカリナの音色を頼りに歩を進めた。

 顔を見せに行くなんて、前は言い残して帰っただろうか。

 いや、どうせなら言っていないほうが驚かせられるかもね。

 

* * *

 

 鉄格子も、土気色の顔をした白衣たちも、耳障りな排気音が絶えない機械も、そこに映る奇怪な文字列や光の一粒一粒に至るまで、視界に入るあらゆるものが嫌いだった。

 みんなぐちゃぐちゃに叩き潰して、滅茶苦茶に破壊して、跡形もなく吹き飛ばしてしまいたかった。

 壊そうと思えばあっけなかった。

 ありったけの力を振り絞るまでもなく、それを為し遂げたボクに残されたのは――

 

 圧倒的な、孤独。

 

 ボクは逃げ出した、あの色のない世界から。

 いつもどこかで覗いていたあの星へ。

 蒼く潤い、碧が眩しく輝く――地球へと。

 

*    * *

 

 細い月の下で、オカリナの音色が今日も心地よく耳をくすぐる。

「おはよう、アイカ」

 ボクが呼びかけると彼女は演奏を止め、地上に目をやってボクに微笑みかけた。それからややあって頬をふくらませる。

「もう、お月様が見えないの、嘘つきウサギ君? 挨拶間違ってるよ」

「いいんだよ、世界は夜から始まるのさ。だから、これで合ってる」

 ボクは歌うように言って窓辺を踏んだ。すぐ目の前にアイカの藍色の瞳がある。夜に溶け込むように、あるいは星を煌かせるように。

「まった屁理屈。これからはひねくれウサギ君って呼ぶよ?」

「ははっ、それもいいかもね」

「全然堪えてないし……仕方ないなぁ、もう」

 アイカは終いにきっと笑ってくれるから、ボクは彼女の事が好きだった。こうしてお喋りに来るようになってからまだ数度だが、顔を合わせたところでうるさく言わない相手というのもいいな、とちょっとにやついてしまうくらいだ。

 森の住人たちとのゲームの後には、決まってここを訪れるのが日課になっていた。ボクは月が上弦を越え、満ち、下弦を過ぎるまで出歩くことを避けているので、顔を合わせていられるのも全くの闇か細い月光の中だけだった。

 アイカはボクを見てそっと目を細めると、オカリナを口に当てる。吹き鳴らされる音が夜じゅうに沁みていくようだった。ボクは目を閉じてそれに聞き入って、それから背にした月を仰ぎ見る。

 控えめに言っても、最高だった。

 アイカは月がよく見える宵が好きなのか、晴れた星空の下でしばしばオカリナを吹く。その柔らかい音は、はじめは耳に慣れなかったものだが、今ではたまらなく美しく感じられるのだった。

 しばらくアイカの奏でる音に耳を傾け、他愛ない話に花を咲かせる。最近覚えたお菓子の作り方だとか、森の泉で見つけた石を使って小物を作ってみただとか。

「そういえば、話したことあったかな。わたしね、お兄ちゃんが居るの。ヒロ、って名前の」

「お兄ちゃん?」

「うん、年は五つ離れているんだけどね……」

 兄妹、というのが何かは知っていた。同系のないボクには他人事に変わりなかったけれど、アイカの話なら興味も沸いてくる。ボクが目でその先を促すと、アイカは不思議と哀しそうな目をして、訥々(とつとつ)と語り出した。

「おっちょこちょいでね。人に頼られるのが好きで、何でも一生懸命やるんだけど、どっか抜けてるの。でも優しくて……絶対面と向かっては言ってあげないけど、大好きなんだ。お兄ちゃんのこと」

 口元に浮かんだ微笑みもどこか翳っている。ボクは何も言えないまま、首を傾げた。

「……先進部の人から、スカウトされてるんだって。ほんとに珍しい話なんだけどね、お兄ちゃんの才能に目をつけた人がいるらしくって。でも、……」

 アイカがそこで黙りこくる訳を、ボクは知っていた。

 この地球は先進部と未開部に分かれているが、その双方間における情報から物資に至る全ての行き来は禁じられているのだ。だから、アイカのいう“お兄ちゃん”が、仮に例外的に先進部に行ってしまったとしたら――

「――そしたら、帰って来れないから」

「…………」

 ボクは言葉を封じ込めてただ見つめていた。

「先進部に行ったらここよりずっといい暮らしが出来る。でも、その代わりに私たち家族とは会えなくなるし、この家に戻ってくることだって一生叶わない。……それで、お兄ちゃん、迷ってるみたいなんだよね。行くか、行かないか」

 アイカは静かに笑っている。笑っているのに、どうしてボクの心はこんなにも鈍く痛んで、冷たくなるんだろう。

 気まずい沈黙を誤魔化すように口火を切った。だけど、頼りない言葉でアイカはさらに苦く笑うだけだった。

「アイカは、……行ってほしくない、んだよね?」

「……そうね。行ってほしくない……でも、お兄ちゃんのためを思うなら行くべきだし、行ってほしいとも思うんだ。先進部の技術を学ぶことはお兄ちゃんの長年の夢だった……それが、奇跡的に叶おうとしているのに、邪魔なんかできないよ」

 心に在る想いと裏腹な答えを口にしなくてはいけない、そう強いられているかのごとく、アイカの口調は重たい。ボクは黙ってその傍に居た。部外者に過ぎないボクが肯定も否定もできるわけがなかった。

 やがて、少し濡れた目元を拭ったアイカはボクを見つめて微笑った。

「ありがとね、聞いてくれて。嘘つきウサギ君」

「別に……何もしてないけどね。アイカこそ、大丈夫?」

「うん、平気平気! 嘘つきウサギ君に心配されちゃ……」

 そこでアイカの言葉は止まった。怪訝に思って見遣るが、何かを真剣な顔で考え込んでいる。数瞬の間をあけて、ぱんっと手を叩いたアイカは、ずっと楽しげだった。

「そうだっ! ライア。ライア、ってどうかな!?」

「えっ、え、えーっと? 何が、何の話?」

 にこにこして捲くし立てたアイカは、ボクの戸惑った様子に我に返ったようで、恥ずかしそうに目を逸らした。

「あ、その、キミの名前。前に、何て呼んでもいいよって言ってくれたでしょ? だから……」

「いや、いい、って言うか……嬉しいけど。でも、何で急に呼び方を変えるの?」

「嘘つきウサギ、って……キミ自身だけを表さないような気がして。当てはめようとも思えば、他の誰にだって使えそうじゃない。でも、今わたしの傍に居てくれたのはキミだけだし、そう表す名前があったら、そのほうがずっと素敵かなって思ったの」

 脳裏に甦るのは無機質な英字の羅列。それが何を意味してつけられたものなのか、ボクは知らない。しかし、それに思い巡らすときもボクはずっと思っていたんじゃなかったのか。それはボクだけを示すものじゃないんだって。

「ライア。“嘘つき”だけど優しいキミに。どうかな?」

「……嬉しい。……」

 その後に続く言葉はない。言語機能は高性能なのに、これに代わる言葉がまるで思いつかない。心は清らかな喜びで溢れて、ボクの機脳(あたま)を浸してもまだ留まることなく溢れる。それが涙だった。初めての涙がこぼれてやまなかった。

「ライア。泣かないでよ、そんなに嬉しかった?」

 頷くたびに雫が散る。言葉も無かったその小さな(いら)えに、しかしアイカは優しくボクを抱き上げて笑った。

「わかったよ、もう……泣き止むまで、ここに居るから」

 泣き止んだって居て欲しいよ、とボクは心で呟きながら、懸命に笑みを形作った。

「大丈夫だよ、別に。アイカこそ、心配性なんだから……」

 

 * * *

 

 全ての始まりを、ボクはたまに想起することがある。

 

「MR01――気分はどうかな」

 聞き慣れた声にボクは顔を上げた。

こくり、と一つ頷いてまた俯く。すぐそこの計器で見ているのは一体何なんだ、と内心で吐き捨てながら。

「意思疎通機能を見たいのだよ。答えてくれたまえ」

「……良好だよ、ハル博士。ここから出してもらえたら、もっと気が晴れるだろうけどね」

 ボクと博士はまるで面会室のように、硝子一枚を隔てて向き合っていた。ボクはそれを内側からこつんと小突いて皮肉たっぷりに笑う。しかし博士はごく真面目な顔をして「ふむ、ならば動作確認テストを行っても……」なんて呟いている。

 博士の目的はずっと初めから変わらない。そんな都合で製造(つく)られたボクとしては馬鹿げていると笑い飛ばしたいくらいだけれど、博士はそれを心から望んでいるのだし、その願いに反したなら処分・破棄されるのが落ちだ。ボクは毎度気持ち悪い愛想笑いで応えるのだが、この硝子の檻にあちこち接続されたモニタや唸りを上げる箱が、その不本意さをグラフか何かで示しているらしい。博士の厳しいお小言を食らっては項垂れる日々だ。

「ねえ、博士……ボクって一体何なんだ」

 完成したはずのボクは、常々この硝子の檻に囚われて、動作テストの時だけ外に出される。それも搭載したくせに、このままでは一生何の役にも立たないかと思われる機能ばかりだ。あらゆる言語・感情表現なんていうのはその代表格で、これがなければ科学者たちもボクの敵意を受けて不快な思いをしたりしなかっただろうに、と思う。

 博士は少し眉を上げてボクを見つめた後、小さく笑った。

「なにって、地球の子供たちの夢だよ。そのために、お前は出来るだけ機械らしく製造(つく)られたのだから」

 人工生命でありながら、ハーフ・クリーチャーと呼ばれるのはそれが理由だった。博士はボクをあくまで生命らしくすることにこだわったのだ。だからボクの身体は心臓にあたる機核(コア)、脳にあたる機脳(ブレイン)を除いてほとんど生物と同じような器官・組織で構成されている。機械的加工を施されているとはいえ、怪我をすれば血だって流れるし、感情が昂ぶれば涙を零したりもする、らしい。実際にボク自身が経験したことのない以上、何とも言い難いけれど。

 ボクの思考をよそに、博士は背を向けた。

「希望するなら、後ほど動作確認テストをしよう。まあ、お前の性能は疑いようも無く保証するがね。MR01」

 その背が、いつになく憎らしく見えたのだ。まるで子供がそのまま大人になったような博士は無垢にして純粋、子供らしく自分勝手で、製造(つく)られた側の気持ちなんてこれっぽっちも見ていないように思えたから。

 ボクは博士を睨み付けながら、素早く辺りに目を走らせた。ルート固定の白衣たちは障害にもならない。問題は、転送装置の起動状態だ。

 丁度一人、研究者がその機械に消えていくところだった。普段なら青光が弱々しく萎んで消え、電源が落ちるはずなのだが、未だに緑に近い光を放っている。

 今しかない。

 ボクは硝子の檻を叩き割って飛び出した。視界の中心には転移装置しかなかった。周りの白衣たちのどよめきも、警報音を響かせだした機器も意識を掠めすらしなかった。ボクは最後まで駆け抜け――地球へ、転移した! 

 

 だが――それはおそらく失敗だったのだろう。

 空間に蹴飛ばされるように地面へと身を擦り付けて転がったボクは、真っ先にそんな結論をはじき出した。体を起こしながらあたりを見渡す。これが夜というものなのか、照明などの光源はほとんど見られない。見上げた空にぽつりぽつりと浮かぶ星明かりが映えている。周囲の明度に合わせて視界を調節する機能がついていなければ、こんなに暗い世界ではあらゆるものが視認できなかっただろう。

 ボクはそこらを歩き回って、どうやらここが地球の未開部であると判断した。研究者たちがこんな場所に用のあるはずも無く、訪れるわけもない。おそらく、転移装置の光の色が変わった瞬間に転移先も伴って変化してしまったのだろう。とはいえボクにとってはそのほうが都合がいいとも言え、それだけ分かれば十分で、となれば雨風をしのげる場所が必要になる。そばの大木の(うろ)に体をすべり込ませて、思いのほか心地よい空間であることにそっと一息ついた。

 闇というのが新鮮に思えた。少なくともボクの周囲にあった環境は太陽から届く光の数%を採光し続けることによって明かりが絶えることはない。そんな生活のせいか、月の住人はわずかな光を捉えられないほどに目が退化してしまっているという。

 未だ適応しきっていないボクの目は、今まで用無しだった暗視機能を突然働かせたせいか、視界が明滅したように切り替わった末、通常の仕様で変化が止む。自分の身体の輪郭さえふやけたように滲んでいる。じっと目を凝らしているうちに焦点が合って精細さが増すが、その画像処理を頭の方が受け付けなかった。闇の空隙で酔いながら、いつしか眠りに落ちていた。

 怠惰に睡眠と食事を繰り返すだけの日々が、それからしばらく続いた。食事の必要性はないと言えばなかったのだが、自分の生を実感するための一つの手段として習慣化していた。

 

 アイカに出逢ったのは、この森へ来てから少し経った頃のことだ。

 森の探検にも飽いて少し足を伸ばしてみようかと思い立ったある三日月の夜、ボクは森のはずれで幻想的な旋律を耳にした。こもるように柔らかく、厚みがあるがたおやかな音色だ。街灯に羽虫が引き寄せられるように、ボクは呼ばれていった。

 音の源と思われる場所へ向かいながら、森は徐々に(ひら)けていき、辿り着いた先には白壁の建物が(そび)えていた。耳がうながす通りに頭上を見やると窓は開いていて、そこから少し身を乗り出した少女がオカリナを吹いていた。都合のいいことに、その窓辺へ伝って行けそうな木があり、ボクは迷わず登っていた。

 目の前に唐突に現れた銀色の毛並みは、少女を相当に驚かせたらしい。少女は演奏をやめると楽器から口を離し、何歩か下がった。不審そうな視線を受けてボクは苦笑する。

「……こんばんは、そしてはじめまして。素敵な演奏をありがとう」

「こ、言葉を話すウサギ……?」

 彼女は目を丸くしてボクを見た。そうか、ボクはほとんどありとあらゆる言語を搭載しているから森の住人とも地球人とも、もちろん月の人間とも会話できるけれど、普通の獣は話さないんだ。

「か、変わってるね。先進部の、サーカスとかから来たのかな……」

「いいや、月から逃げてきたんだよ。ここへは、オカリナの音を聞いたから少し興味を持って」

「ツキ? そんな地名は聞いたことないけど……それともお月様のこと? まさかね。月にウサギがいるなんて、おとぎ話だし。ねえウサギさん、お名前は?」

 いっこうに信じてもらえていないことはともかく、彼女は友好的だった。ボクは思案の後に名前を呟いた。

「『嘘つきウサギ』って呼ばれてる。割と気に入っているけどね、君が好きなように呼んでくれて構わないよ」

「嘘つきウサギ……あはは、ぴったりね。わたしはアイカ。よろしく、嘘つきウサギ君」

 

 それが終焉まで綴られた物語の、はじまりはじまり。

 

*    * *

 

 少し昔の話になるけど、聞いてくれるかな。

 空間転移の技術発達で、星間飛行が高度化した、って話はキミも聞いたことがあるかもしれない。いや、この話は先進部にしか伝わっていないんだったかな? 

 まったくひどい話だよね、世界はきっかり半分に分けられて、技術や資源を独占する先進部と、それら一切の情報流出を絶たれた上、何の支援も受けられない未開部の二つにされたなんて。ボクから見れば未開部のここはまるで歴史書に見る中世の暮らしみたいさ。まあ、どちらにも属さないボク――先進部に次ぐ発展程度である月の住人――の評価なんてどうでもいいか。

 話が逸れたね、ごめんごめん。先を続けるよ。

 それほどまでに世界が科学を手に入れると、人は月を夢見た。いつでも空に浮かんでいるとわかるだけ、他の星に比べて憧れも膨らむってものだったんだろう。それで、ある奇特な科学者が何人かの協力者と数百人の労働者を伴って月へと渡ったんだ。

 地球からの景観を損なわないように、月の地表全てをシェルターで覆い尽くすのが最初の作業だった。いわば地面の底上げだね。人々は地下、つまりシェルターの内側であらゆる開発や資源採取を行うようにしたんだ。昔の漫画じゃドーム型の都市をいくつか建設して互いを繋ぐ、なんてことをしたらしく描かれてるけど、実際の未来のほうがずっと進んでしまったということだね。今の技術じゃそんなことをする必要はなくなったんだ。

 それで、その最初の科学者だよ。彼はどうして何の下準備もできていない月なんかに行ったと思う? ――彼にはやりたいことがあったそうさ、こんな動機だなんて誰もが耳を疑うだろうけど。ボクだって彼は狂っていたんじゃないかって思うよ。そんな彼の願いを具現化されて生み出されたボクだから。

 彼曰く、『月に本当に餅を()くウサギがいたとしたらどうだい、面白いだろう?』ってね。

 

*    * *

 

 森で一番高い木の場所はすぐに覚えてしまった。

 ボクは気が向いた夜――とりわけ月が満ちて大きな夜が好みだった――にその木のてっぺんまで登り、そこで憚らずにこう叫んでやるのだ。

「さあ行くよっ、準備はいいかい!?」

 すると打ち寄す波のように、森のあちこちから決まって声が返る。単なる声というには少しばかり攻撃的かもしれない。

「誰も呼んでないよ、お前なんか!」

「どうして何度も来るんだ、嘘つきウサギめ!」

「オレたちの平和な生活を邪魔しやがって……!」

 まったく、ひどい言いようだ。ボクは純度百%の善意でみんなを楽しいゲームに誘っているだけだって言うのにさ。

 ため息をひとつ吐いて首を振り、また声を張り上げて叫び返した。

「たまのスリルくらい素直に楽しんだらいいと思うけどねー!? ――さて、ボクが勝つかキミたちが勝つか? さあ、ゲームを始めようか!」

 勝利条件は極めて単純。森の住人たちが抱える宝物を奪えればボクの勝ち、守りきれば彼らの勝ち。始めは勝ち負けなんて何もない、ボクの一方的な悪戯だったのだけれど、彼らがあんまりにも悔しそうにするものだから、いつの間にかゲームのような形をとるようになっていた。

 そうして一通り楽しんだ後は、アイカの元を訪れる。

 ボクの日常は、たったそれだけの物語だった。でも、それ以上なく満たされていた。

 時を経るうちにボクは月の存在を意識するようになり、不用意な出歩きはやめた。ボクを見張る目にも勘付くようになった。とりわけその気配は月が満ちた夜に膨らむので、月の住人がボクを見つけられるのは光の中に居る時のみだという事も理解した。

 ――月を抜け出してもまだ、ボクは月に縛られ続けていた。

 だから新月の夜を好むようになったのも、必然と言えばそうだったのだ。月の光が一欠片も降らない夜、ボクはよくアイカの元で言葉と音に耳を預け、甘い夢に眩んでいた。

 そしてまたその夜も同じように、あの白壁の家へ向かうつもりだったのだ。ボクは辺りが藍色の静謐に飲み込まれているのを察して、足を止めた。誰も彼も息を潜めたように音を殺して、見計らったように風は凪ぎ、完全な静寂がそこに在った。

そしてまた彼もそこに――

「よぉ、“嘘つきウサギ”」

 背後からかかった声にボクは咄嗟に身構えた。じりじりと振り向く。

 声の主は影の中にいた。そこから、細い耳が二つ覗いている。ウサギだ、と直感的に思いながら、その直感は同時に野ウサギではないとも告げていた。

 ボクは警戒心を解かないまま闇を睨み付ける。

「キミ……誰? すごく……何て言うか、同類の匂いがする」

「へ。イイ鼻してるな」

 その時ボクは天啓とも呼びうる電撃のような閃きに打たれた。言葉を扱い慣れている生き物なら、『匂い』が文字通り嗅覚を指すとは考えないだろう。文字を字面通り受け取り、額面通り処理するその融通の利かなさは、まるで慣れ親しんだプログラムのようだ。それに、類似した外見的特徴――。

「……もしかして、キミ……」

「おっと、先に言い当てられちゃオレの立つ瀬がない。幾らアンタの勘が鋭いからって、ネタバレはなしだぜ?」

 薄明かりの下に進み出た姿に、ボクは息を呑む。

そこに居たのは、ボクによく似たウサギだった。そう、それは本当によく似ていたのだ。質感から体型、大きさに至るまで、本当によく。

「つーことで、はじめまして。名乗る名前は持ち合わせてないから、間の抜けた自己紹介になっちまうのが少々癪な所ではあるが……まあ、ご勘弁願おうか。オレは、あんたの弟にあたるやつだ」

「弟……っ!?」

「もちろん血は繋がってねえって。当然だろ」

 月の手先だ。機脳内で弟の存在をそう変換してしまった途端に、ボクはそれを否定したくなって、眼前のウサギを睨み付けた。出来る事なら、月の住人であることから打ち消してしまいたかった。ついにこの身に月の奴らの手が伸びたと認めたくなかったのかもしれない。

「……名乗る名前がないって何さ。ボクの弟なら――」

「へえ、あの味気ない製品名(プロダクトネーム)を名乗れって? 生憎だがオレはあの名前が嫌いでね。アンタ……いや、兄ちゃんみたく気の利いた呼び名もないしな。な、嘘つきウサギさんよ? それとも、RTHC-PT-YE01って呼ばれる方が好みか?」

 ボクはぐっと黙り込んで、返す言葉を探した。

 RTHC-PT-YE01――それが、ボクを表すもう一つの名前。いや、名称と言い換えよう。無機質で、味気なく、温かみの欠片も持ち合わせないソレをボクは好まない。まるでそう名付けられるのはボクでなくても良いように思えるからだ。

 開発者であるハル博士は、酔狂という言葉がこれ以上なく似合う人物だった。彼の目的は、月で暮らすウサギを現実のものとすること。

「……キミも月で製造(つく)られたのか……?」

「そりゃもちろん。てか、オレは兄ちゃんの後継にあたるんだぜ?」

 後継が必要とされたその意味は明らかだった。ボクは苦々しく吐き捨てた。

「ボクが、逃げたからか」

「わかってんなら何より。……あーめんどくせ、もう簡単にバラしちまうとさぁ、オレ兄ちゃんのこと捕まえに来たんだわ。今だってその命令が機核(コア)に来てんの」

 その言葉に反応したのは頭が先だったのか、身体が先だったのか。ボクは飛び退ると身を翻して闇の中に飛び込もうとし――そこで飛来した言葉に足を縫い止められる。

「あー、待て待て。そんな身構えんなよ兄ちゃん。オレは兄ちゃんに手ぇ出す気、全くもってねえから」

「騙されるか!」

 反射的に叫び返す。のんきな声との差異は明確だった。そう断言するに足る根拠があった。もしこの弟が本物だとしても、ボクと同じ壊れた思考をしているわけがないのだから。与えられたものに不満を持ち、ありとあらゆる障害を破壊してまで抜け出すような真似をした、ボクと。

 それを告げるとウサギは呆れたように息を吐いた。

「あったりまえだろ、オレは兄ちゃんの件を受けて製造(つく)られてんだからさ。そこんとこは妙にみっちりされたよ。でも、機核(コア)に逆らう方法ってのは別に一つじゃない。正面から歯向かわなくても、誤魔化すことだって出来んだよ」

 実際、オレにはそんな方法しか取れなかったんだけどな、と弟は自嘲した。そして、ボクを澄み切った眼で見つめる。そこに浮かんでいたのは――憧憬? だが、それはすぐに消え失せてしまった。

「オレは兄ちゃんを追えって命令を隠れ蓑に、観光に来てるようなもんさ。新月の一晩くらい、兄弟ふたり水入らずで過ごさないか?」

 その言葉にもボクが緩みを見せないので、ウサギ――弟は大きくため息を吐いた。

「何でそんなに信頼してくれないんだよ? オレだってそろそろ傷つくって……」

「キミ、ボクらの原則を忘れてるよ。上位命令をボクらの認識だけで塗り替えるなんてこと、出来るわけ……」

「おいおい兄ちゃん、大事なことを忘れてるのはそっちだ。事実、前例はアンタ自身なんだから」

 弟は皮肉気に笑った。

「あの檻から抜け出すな、って言いつけが無かった訳がないんだ。でも兄ちゃんは衝動的にそれを破ったからこそ、ここに居るんだろ? 絶対命令なんてオレたちには存在しない」

 そして冷めた瞳で言い放つ。その瞬間の彼の目は、鏡のようにボク自身を映していた。

「――オレたちの中枢システムに組み込まれた試作プログラム。オレにはMind.exe、あんたはその上位互換のKokoro.exe。オレたちは機械でも生物でもない、言うなればその二つの狭間を移ろうモノ。だからこそそこには無限の可能性がある、そう思いたまえよ」

 ハル博士を思い起こすその口調にボクが思わず眉をひそめると、弟も「博士を思い出したか? ……オレも」と笑った。

「兄ちゃんが羨ましいぜ。思考、行動に制約を受けないってのはいい」

「……ボクも同意しておこうか。悪くない、そう思うよ。それが世界に対して是か非か、分からないけど」

「是か非かなんて誰が決める事でもねーよ。兄ちゃんがそれを気にするんなら、自分自身で決めるんだな」

 そして、先と同じような深いアイ色を瞳に滲ませながら、ボクの脇を通り過ぎていく。

 ボクの全てを書き換える、爆弾のような宣告を残して。

 ――ただ、兄ちゃんも解ってるとは思うけど、一つ言っておく。あくまで善意だ、解って欲しい。

 そう前置きした彼は、足を止めてボクの耳にささやいた。

 

 兄ちゃんの機核は二度と維持(メンテ)されなければ修復もされない。あとは朽ち果てるだけだ。その状態でおそらく機核の耐久期間は……保って一年。そんなところだと思ってくれ。

 

 * * *

 

 そう、だから愚かなボクは自分の執着のために罪を犯した。

 最初の気持ちは、もっと綺麗だったのに。

 最初の気持ちは、もっと純に澄んでいたはずなのに。

 どこですり替わったんだろう。

 どこで汚れてしまったんだろう。

 ――どこで穢してしまったんだろう。

 

 ボクは、様々な物を盗み始めた。

 

 ゲームと称した森の住人たちとのやり取りが切欠だった。いつもなら走り際にわざと落としていく。その時も、ゲームの途中まではそのつもりだったのだと思う。しかし走り出したボクは、全て住処にしていた大木の洞の中に持ち込み、それを積み木でそうするように組み上げたのだ。がらくたは少しずつ増えていった。何の価値もない宝物がつくり上げていく山を見ながら、ボクはその傍で眠りにつく日々を繰り返した。

 そして変わらない日課をこなすように、アイカの元にも足を運んだ。アイカはボクを誘ってよく星見をした。地球から見える星座についてはボクのデータベースにもろくな情報がなく、アイカは楽しそうにボクに語って聞かせた。星々の絵と、そこに秘められた神々の物語を。半分馬鹿らしいと冷めた感情が零すのを、踊る胸の鼓動が掻き消していくのだった。

 それだけで満足すればよかったのに。

「ライア、前したお兄ちゃんの話、憶えてる?」

「うん。先進部に呼ばれているんだってね」

「そう、その話。……お兄ちゃんね、行くって決めたんだって。だから、これを作ったの」

 差し出されたのは青い石が中央に嵌められたブローチだった。今まで何度か見せてもらったアイカのアクセサリーの一つだと予想できた。

「お兄ちゃんがね、わたしたちのことを忘れないでくれるように。どんなに遠くなっても、これを見れば思い出してくれるように。……ど、どうかな?」

「すごく綺麗だ」

 ボクはそれだけ言って、ブローチを見つめた。星の光を真ん中に溜め込んだような石が、透き通るような光を放っているように見える。吸い込まれるように見入ってしまう、不思議な輝きをしていた。

「…………」

 アイカはボクの言葉を待つように、黙り込んでいた。ボクは答えを探し、そして口にした。また、本心に逆らうように。

「きっと素敵な思い出になる。贈り物の案としては最高だと思うよ」

 ボクも欲しいくらいだ、と冗談めかして笑いながら、本当にくれたらいいのにと胸中で呟いた。アイカの心の証だ。アイカの想いの結晶だ。そう知っていながら。

 だから、アイカが眠りについた後、ボクは窓に手をかけ、音を立てないように開け、部屋に忍び込んで、そのブローチを盗み出した。

 細い月影を湛えたブローチは、変わらずに美しい煌きを放っている。だというのに、アイカの手のひらの中にあったときより冷たい色に見えたのは、それが望まれない場所に持ち去られようとしているからだろう。

 ボクはがらくた山の頂上にそれを据えた。見るたびボクがアイカの存在を感じられるように。

 そして同時に、ボクがアイカへ犯した罪を忘れないように。

 

*    * *

 

「そんながらくたの中心で、何やってんだ、兄ちゃん?」

 弟がやってきたのは、そんな日々の合間だった。

 振り向いて一番先に、彼の両脚の中ほどにつけられた二つの十字型の傷に目が止まる。

「キミ……その傷は?」

「ん、これか? 言った通り、オレは兄ちゃんの性能、傾向、反応を逐一取り上げて、その欠陥を塞ぎつつ製造(つく)られたけどよ、流石の博士らも兄ちゃんの脱走までは考えてなかったみたいでさ。オレがひとまず完成していよいよ外に出されるってなった時、このインタラプトを埋め込まれたんだ」

 平然と語る弟を見て背筋に怖気が走った。すでに完成した肉体に新たな異物を埋め込む行為が、どれほどの痛みを伴うのか。実験動物と言い換えてもいいほど、同じような行為の対象にされたボクには、それがよくわかったから。

「な、何の目的で……」

「兄ちゃんからの余計な電波的干渉を遮断するために決まってんだろ? オレまで兄ちゃんみたく狂われたらたまったもんじゃない、って意味だろうしな」

「…………」

「何黙ってんの。もしかして自分の所為だとか」

「思ってるよ。たった一人もいなかった同系に、知らず知らずのうちにそんな十字の傷を――」

 ――十字の傷、か。

 与えたくもなかった贈り物。それならばせめて、何か違う意味合いを持たせられないだろうか。

 アイカなら、何か素敵なものを思いついてくれるかもしれないのに。ふと浮かんだ。でもここにはアイカは居なくて、ボクしか居ないから。あの心地よい安らぎに凭れてしまって、ボクだけの意志を失いかけているから、ボクはここで向かい合わなきゃいけない。たったひとりの弟に。

 アイカと弟を引き合わせよう、といういつかの思いつきはすっかり姿を消してしまっていた。すべてひとりで始まりひとりで終わるのならば、ひとり同士でしか届け合えない言葉(もの)がある。

「おーい。人のこと言えねえよ、兄ちゃん?」

 内面世界から引き上げられて、ぼうっと弟の顔を見る。怪訝な目に自分が映っているのを認識して、ふっと笑った。

 あの、十字を描いた星の絵の名を、なんて言ったっけ。

『星を見るのが好きなの?』

『そうだね、すごく。ボクはずっと、蒼く綺麗な星を見ていたから』

『蒼く光る星は、それが白ければ白いほど温度が高いって言うね。ほら、見えるかな、あの十字をかたどった星が。あれは――南十字星(サザンクロス)って言うんだよ』

 脳裏でアイカが指を差す。深い紺碧の空に揺蕩う四つ星を、交わるように細い指が繋ぐ。その交差点に光を見た。と思ったとき、ボクは弟の十字の傷に見入っていて、その奥に点滅する何かの証明を捉えていた。

「――クロス」

「へ?」

「……キミを呼ぶ名に、どうだい。気に入れば、の話だけど」

 弟はボクの顔をまじまじと見、次いで足先の傷を見遣り、またボクを見つめ返した。

「クロス……って? どういう意味なんだ?」

「きっと、十字のこと。そんな星があるらしいんだ」

「……へえ。んじゃ、それで」

 クロスは小さく笑った。その笑みは本当に淡く、ボクの見間違いだと言われても信じてしまいそうなほどだったのに、クロスの中の喜びが手に取るようにわかって、アイカが名付けてくれた時のボクもこうだったのかもしれない、とぼんやり思った。

「そういや……クロス、何でここに?」

「おいおい、先にオレの質問に答えろよ。こんなところで何やってんだ? しかもがらくたに囲まれて。ああ、でもこれは綺麗だな」

 クロスはアイカのブローチを取り上げてしげしげと眺めた。それからボクに答えを促すように目を向ける。

「そうだね。……がらくた……本当にがらくたばっかりだ」

「どっから持ってきたんだよ? 結構な量有るけど」

「……この辺りの森、森の住民たちの棲み処なんだ。そこから」

 懺悔するようにそこまでを口にして、それ以上言葉が続かずに黙り込んだボクを、クロスはしばらく珍しいものを眺めるように見ていた。そして、静寂がひりひりと肌を傷めだした頃になって、ぱんと手を叩いた。

「あーオレ、わかった。わかっちゃったー」

「何が……?」

「兄ちゃんが何でそんなの集めてるか。あんまりにも短絡的だとは思うけど……って、もしかして自分でも意識してねえのに盗んできてたのか?」

 そこではたと考えを巡らせてみると、確かにそこに明確な動機は無かった。衝動的としか形容できない感情がボクを突き動かした結果、がらくたは積み重なっていったのだ。

「え……あ、うん……確かに、何で持ってきちゃってるのかな」

「最近アンタの身に起こったことって言ったら、オレが言うのも変だけど……オレが現れ、そしてアンタに余命宣告をしたこと、だろ? 兄ちゃん、不安になったんだよ、無意識的に。だから、『自分がここに居た証』ってやつを残したくなった」

 隙間にするりと突き通す様なその言葉の確かさ、クロスが抱く確信の程度は理解できるのに、その言葉が意味するところが少しも見えない。ボクは、何を言われているんだ? クロスは、何を言っているんだ?

「……なに、それ」

「言った通りの意味だ。忘れられたくなかったってこと」

「……そんなはずはないよ。ボクは誰にも知られずに朽ち果てるだけだ、そのうち誰だってボクのことを忘れるさ」

 避けようもない死があるとするなら、看取られる相手はアイカがいいな、と思い浮かべて微笑(わら)った。そもそも自分は誰かに看取られることを望んでいるのだろうか。その死の痛みを誰かに押し付けてまで、憶えていられたいのだろうか。

「だーかーらー、それだとアンタの行動と辻褄が合わねーだろうが。アンタの行動はどう考えても自身の存在のアピールだよ。物を盗んで来ちまったのは、あんた自身がそれを見て森の動物たちを思い出すため、それから動物たちが盗まれたものをここで見つけたとき、あんたの存在を思い出してもらうため」

「……んなっ、はずは……!」

「だから、こんな森の近くにこの山を作ったんだろ。そいつらが見つけやすいように」

 滑らかに淀みなく紡がれる言葉が、ボクの意識もしなかった真実を暴いていく。否定しながら、具体的な反論は一切思いつかない。それが、さらに真実であることを主張する。

「きっと、兄ちゃんだって分かってるよ、ホントは。気づかないうちに願ってたから、外から言い当てられて認めがたいだけだ……もしひとりで気づいてたら、すとんと胸に落ちてたと思うぜ」

 クロスの声色は今までになく優しい。

「……それにな、これはオレの主観だけど。そんな必死に爪を立てて傷にして残さなくたって、忘れないでくれると思うよ。誰かを憶えているのに求められるモノってのはさ、そういう痛くて惨い傷でも、いつの間にか冷たくなった実体でもなくて――もっと不確かであったかくてやさしい、キズナ、ってやつなんじゃないのか」

 うつむいたボクの頭をぽんぽん、と叩いたクロスは、それから我に返ったように後ろ頭をがしがしと掻いた。

「……って、だーもう恥ずかしいこと言った! こういうのはオレのキャラじゃないんだって……! だろ!?」

 やり込められたお返しにと、ボクは言葉もなくただにやついた笑みを返す。その返事にクロスがまた「だーもうっ」とひとしきり暴れまわって、まるでボクらは本当の兄弟のようだった。自分のことを心底理解できる相手は、本来いなかったはずなのに。同じように生まれ、似たように育ったボクらは、それまで一時たりとも共有しなかった時間を今ここで取り戻したように、笑い合っていた。

 

「じゃあ、少し出歩こうか。とっておきの場所に招待するよ」

 ボクはクロスの手を引くと洞を出た。言いながら、どこへ行くかを決め兼ねて立ち止まる。明るい満月がボクらに向けた華々しいスポットライトに照らし出されて、二つの影は浮かび上がった。

 その時だ。

 ばしゅっ、と鋭い音を立てて眼前の地面が何かに穿たれた。わずかに残ったその残滓は、恐ろしいほどに冷たい青黄金の光。

「な……兄ちゃん、下がれ!」

 クロスの声が先か、本能的な判断が先か。ボクが言葉通りに飛び退ると、数舜前までボクが立っていたまさにその場所が同じ光に貫かれて細かい土を飛ばす。先ほどよりも本数は多い。

「ちっ、まじかよ!? 兄ちゃん、やつら月の執行者だ! 地上へ過干渉だったのか……!?」

 クロスの視線を追って見上げた空には、(たわ)んだ歪みがいくつも目に入った。光学迷彩だ。それがゆるりと腕を下げるので、ボクはようやく彼らが持っているものを認識した。

「あれは……」

「最近開発されたとかいう《光弓》だろ、正式名称は……何て言ったっけ……」

「そんなのはどうでもいいよ! つまりは、何なんだあれ!」

「いわゆるレーザー兵器だよ! それもずっと高性能の、な!」

 ボクらは口々に叫びあいながら森の中を駆けた。月の住人が視認できるのは光に照らされた中。ボクはそれを経験上よく知っていたから、木陰から出るような真似は一切しなかった。

 だが、弟はそれを知らなかった。

 その違いに気付いたのは、何度目かに撃ち出された光がクロスの足を掠めたからだ。クロスは闇雲に、一直線に走っていて、自分が月光の中にいるか否かを一切気に留めていなかった。ボクはそれに気付いた途端、声の音量を落として鋭く言った。

「クロス、月光に照らされちゃダメだ! あいつらは、光に照らされないものは見えな」

 遅すぎた。

 全ては、せめてもう数秒前に気付くべきだったのだ。

 それともすべては数奇な運命とやらのせいなのか。ボクの言葉の最中月光の下に飛び出したクロスは、ボクの眼前で数本の光線に同時に貫かれ、地面に転がった。

「クロス……!」

「わ、悪いな、兄ちゃん。オレ、やっぱり……死ぬのが怖い、よ」

 駆け寄ったボクはクロスを影の中に引きずり込もうとしたが、その途端またクロスを撃ち抜いた光の内のいくつかがボクを掠め、ボクは弾き飛ばされた。

「もう、いい」

 途切れ途切れの声はクロスのものだった。

「オレは、兄ちゃんに、憶えててもらえるから。だろ?」

 また光線が降る。彗星のように、あるいは流星群のように。

「……ごめん。もっと……早く、出逢いたか」

 クロスの最後の言葉は無情にも殺されて、その終いまで聞き届けることは叶わなかった。

 両手に余るくらいの、いや指折り数えることを諦めるほどの光がクロスの身体をずたずたに切り裂いたかと思うと、次の瞬間に弟はぐちゃぐちゃの肉塊と、少しの金属片に果てていた。

「――……っ!」

 言葉を失ったボクはクロスの欠片を一つ掠め取り、また闇の中に逃げ戻る。あらゆる迷いを振り払い、少し前まで笑い合っていたあの洞へ向かって、ひたすらに走り出した。

 その道中のことを、あまりよく覚えていない。

 いつしか辿り着いた洞に潜り込んだボクは、がらくた山を登る。

 最後にまだ、やらなきゃいけないことがある。

 がらくた山の上に置いたブローチを掴み上げ、クロスの欠片と置き換えたボクは、アイカの瞳と同じ色に染まった空を仰いだ。

 

 

 頬を滴る月の雫がくらり、歪曲して奇妙な軌跡を引きながら落ちていく。

 自分の視界が揺らいだのだ、と気付くまでに数瞬を要した。

 傾いた木々がまるで自分の方に倒れてくるように錯覚する。

 自分の体が土の上に横たわっているのだ、という認識が染み込むまでにさらに数瞬を要した。

 きっと月の光に紛れて奴らが降ってくる。そうしたらボクも、もう一つの“心”と同じように死に絶えるだけなのだろう。ボクの後に続く者はなく、ボクの前を行く者も潰えて。僕は居ても居なくても同じになって。

 そこまでの事実を淡々と確認したらまた、新たな雫がこぼれ出た。                           

 何が痛い? 折れた脚かな、止まり始めた心の臓かな。

 ああ、叶うことならどうか、あの子がやって来ませんように。

 気取り屋のこんな無様な成れの果てを晒してたまるもんか。 

 

 

 脇腹を浅く裂かれたらしい。疾走の衝撃が先よりもずきずきと響きだした。痛覚が思い出したように主張を始める。傷口からぼたぼたと零れるのは、きっと血ほど純じゃないだろう。

 意識が不明瞭になる。頭の奥で芯を揺さぶるようにひどい鈍痛の吠え声を無視し続けた代償か、ただ一つの目的を、それを達成するための行動を設定した脳内が、警告灯のように真っ赤に染め上げられた。

 そこでボクは、一つの無機質な声を聴く。

 

- ERROR -

 

 結局は、そういうことなのだろうか。

 ボクは終始ただの機械。致命的な異常を抱えて“ココロ”の夢を見、いつかの夜明けの温もりを手放したくないと願った。ただそれだけのモノ。

 こんなことなら、と思う。製造(うま)れなければ良かったのにな。

 死に際に断片的な記憶が呼び起こされるというのは、もしかしたら自我を持つモノ全てに当てはまるのかもしれない。それともメモリ制御すら利かなくなってきたのか。ボクは自由を求めてしまったあの始まりの檻を幻視した。

 触れられなかった世界。僕を数字に変えた計器の群れ。白衣たちの無感情な目。あれらを忌んだ自分の認識を止めてしまえば、何も終わらず、何も始まらなかったろう。

 そしてまた息を吸う。今度は積み上げられたガラクタの山を前に。一つ取り上げる。すると瞬時に風化してぼろぼろと崩れ落ちた。

『おや。ここの森の子じゃないみたいだけど……?』

「うん、ボク、月から来たんだ。月のウサギだよ」

『月って、あのお月様の事かい? また、一体どこの子だ。こんな嘘で誰かを騙せると思ったら大間違いだぞ!』

 

 ――嘘なんか、一つも吐いていなかったのに。

 いつしかボクは、『嘘つきウサギ』と呼ばれるようになっていた。

 

 《みんな》信じてくれなかっただけ、だけど。

 そんな《みんな》に、ボクは名前――誰かを誰かと認め個別化する固有名詞――をもらっていた。

 

 存在の(あと)の永遠性を空目した月下の森。素直かつ純潔な愛をひたむきに抱き締めていたかった窓際の平穏。森には生まれ得ない温もりを帯びた手のひらと、月光よりも甘い灯りに照らされた部屋。

 それらはボクにとって硝子越しの煌きだったのに、手にしてはいけないものだったのに、身の程知らずのボクはとうとう決定的な線を越えてしまった。

 そんなボクが立たされた舞台は深海のように重い闇に包まれ、ひどく暗くて冷たかった。このまま朽ち果てるまで蹲っていたい。ここに閉じ篭ったままなら、元から朝菌なこの命の刻限を最後まで使い切れるだろうから。

 だけど、――耳を澄ませ、目を開け。

 この手にある暮れた空色のブローチ。あの子へ吐いた最初で最後の嘘を、嘘のままにしておけるか。ひたすら考えに考え抜き、そして決断しろ。

 ……なんてね。

 答えなんか初めから分かり切っているんだ。だってボクは狡いヤツで、いつまでたっても道化だから。だからこそ――

 ――道化に分不相応な散り際は望まない。ボクが立つべきは、スポットライトに月光を使ってやるくらいの、華々しい大舞台。

 気付けば遠くにぽつりと浮かんだ光点があった。単なる闇とは違ったのだ。トンネルは長く、しかし出口の光はやけにはっきりと見えた。ボクは手の中のブローチに目を落とすと、それをしっかりと握りしめ、確かな足取りで歩きだす。

 

 ボクはわざと土を強く蹴立てて月光の中に躍り出た。

 銀光を纏った冷酷無慈悲な執行者をひたと見据えた。浮遊する奴らが無色透明な翼を広げたように錯覚する。闇に溶けるような姿は確かにこちらを捉えたのだ。その事実にただでさえ役に立たない心臓が止まりそうになる。強引に飲み下して、ゆるりと持ち上げた腕を突きつけてやった。

 ――さて、ボクが勝つかキミたちが勝つか? 

 さあ、ゲームを始めようか!

 心内で高らかに宣言、即座に身を翻して宵闇へ飛び込む。瞬間、それまでボクが居た場所を青黄金の光線が鋭く貫いた。ぎゅっと手足が縮こまりかけ、それを無視して体を前に進めることだけに集中する。殺される前にアイカの元へ辿り着けたならボクの勝ち。奇しくも優位はいつかのゲームとひっくり返ってボクが劣勢。それでも勝ってみせる自信はあった。否、そう思わなければボクの命は瞬き一度の空隙で奪われる。

 

 ――夜を駆ける。

 急がなきゃ。――終焉が訪れる前に、あの子の元へ行こう。

 

 いつものように傍の木を伝って窓辺へ。平衡感覚が狂いつつあるのか、自分が身体をどう動かしているのかもわからないまま座りこむ。手が震えていた。やっとのことで、窓を叩いた。

「あ、キミ。待って、今開けるからね」

 音に反応した彼女は振り向くと、嬉しそうに笑ってこちらへ歩み寄ってくる。ボクは緩慢な笑みでそれに応えた。

「……やぁ、アイカ」

「こんなに月が綺麗な夜に、キミから来てくれるなんてね。どうしたの?」

 たった一度だけの例外だよ、とボクは小さく笑った。そして、逆光の中のアイカを見上げた。

「キミに、渡さなきゃいけないものがあるんだ」

 後ろ手に握っていたブローチを差し出すと、アイカは目を丸くした。

「これ……わたしのブローチ!? ライア、見つけてくれたのね!」

 もう見つからないかと思ってた、と嬉々として受け取る彼女を複雑な心境で見遣った。ボクの態度の変化には気づかないまま、アイカは少し土に汚れたブローチを指で拭って、光に透かしたりしている。

「ねえ、どこにあったの?」

「……森の中の、がらくた山。そこで見つけたんだ」

 どうしてそこにあったのかまでは言及しなかった。森の住人達は基本的に人の生活に触れようとはしない。だから彼らが盗みを働くことはあり得ない。でもアイカはそう推測した様で、ほっと息をついた。

 ふと頭上が翳る。驚いて身を竦ませると、アイカの手がボクの上に伸びていて、ボクは撫でられていた。やわらかい感触に、胸の中にあった得体のしれない(こご)りが溶かされていくようだった。

 ここに来てよかった、と単純な頭は呟いた。そして、はたと気づく。

 これが、ボクの――ボクの望んだ――

 ボクを包んでいた手のぬくもりが遠ざかるのに少し名残惜しくなる。見上げればアイカの笑顔。眩むほどの多幸感と、甘酸っぱい感情。正体のわからないものを無数に抱えて、ボクはようやくそれを言葉に変換した。

「やっと、分かったんだ。ボクがずっと望んでいたもの」

 ボクの呟きに、アイカが首を傾げた。

「ずっと望んでいたもの? ……そういえばキミは逃げてきたとか言ってたっけ。自由、とか?」

 嘘扱いした割には信じてくれてるんだね、と言うとアイカは照れたように笑って、「それで?」と僕に続きを促した。

「自由、か……間違っちゃいない、確かにボクはあの檻を抜け出したかったし、機核の限界だって――いや、とにかく、間違っちゃいないけど、そうじゃないんだ」

 体温は、単なる体の機能を保つための熱じゃない。触れ合いの中の体温はまた違った意味を持つ。それが、アイカの傍で気づいたこと。

「――いくら自由だって、ひとりぼっちは御免だよ」

 世界中のどこに行けたって、誰に逢えたってさ。ボクを知らない、認めない世界なんて淋しいだけだろ。

 一人旅に出るくらいなら、キミを見ていたい。キミの傍に居たい。

 見識も世界も広がらなくたって構わないから。

 ボクがそう言うと、アイカは少しの間吃驚したように目を見開いてボクを見ていた。それから、それは柔らかな笑みの中に溶けて見えなくなり、その唇が夢のように甘い言葉をくれる。

「わたしでいいなら、一緒にいるよ。君の望みを叶えてあげられるとしたら、それはすごく素敵なことに思えるから」

 生まれた意味をたった今見つけたような思いだった。

 きっとボクが生まれた意味を知ったような顔で語るような奴らは幾らでもいるのだろう。そんな奴らにとっての意味も確かに存在するのだろう。科学への貢献だとか、地球の子供のための夢だとか。でも当のボクにとってそんな答えは何一つ意味を為さなかった。一方的に生み出された側にとって面白味なんか一つもなかった。

 だけど今、そんな絶望も諦観も、今までの全てが報われるような気がした。

「アイカ」

 だからどうしても、聞いておかなければならないことがあった。

「なに?」

 深い群青の瞳と目が合う。

 ボクは少し息を吸い、また吐き、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返して口を開く。

「キミは、後悔していないかい」

「……どうして?」

「いいから。答えて……」

 白くスパークした脳内のせいか、視界が濁る。その先で声を聞いた。

「悔やむことなんて、一つも無いよ」

 曇りを払うような一言。やや詰まって、再び問う。

「ボクと出遭ったことも?」

「キミと出逢えたことも」

 澄み切った微笑みが眼前にあった。一人気にしていたボクが馬鹿みたいじゃないか。ふと笑みがこぼれる。

 すると自分の不誠実さが堪え難くなった。自分の執着のために彼女の宝物を盗んだボクは、未だにその事実を隠したままなのだから。

「アイカ、聞いてほしい。ボクは、キミのそのブローチを――」

 その時だ。

 背後で膨らんだ何らかの気配を察してボクは飛び退った。飛来した光線が窓辺を白く焼く。アイカが怪我をしてないだろうかとまた戻りたくなるが、ぐっと堪えて地面を蹴った。ボクが戻ればそれだけ彼女が危険に遭う可能性も高まる。

 ついに来てしまったのだ、刻限が。

 勝負と試合は別。先に辿り着けば勝ち、なんてルールが決められた試合の勝敗なんて、執行者にしてみればどうでもいいに決まっている。奴らにとっての勝利条件は明らかで、ボクの抹殺なのだから。

 ボクはアイカの家から出来るだけ遠ざかるようにと、それだけを考えて走った。しかし、人家に近い場所は当然の如く森の木の密集率も低い。影から影へと逃げ込むその瞬間に何度か光線がボクを捉えて、ボクは見る見るうちに穴だらけになっていった。

 

 * * *

 

 森の中で一番高い木のその下には、ぽっかりと円く空いた空間があった。まるで舞台のように光が差したその中心で、ボクは無様に横たわっていた。

 ボクを繋ぎ止めていた意志はいつしか、まるで元から存在していなかったように霧散していた。

 そうして世界は終わりに向かって走り出したはずなのに――ねえ、どうしてキミがそこに居るんだい、アイカ。

「よかった……やっと見つけたよ。ライア」

 安堵のため息に続く足音。駆け寄ってくる振動を体で感じながら、沁み渡る心地良い脱力感を処理できずに途惑う。死に直結する感覚のはずなのに、それが当然であるかのように温かく存在するこれは、紛れもなく幸福感に分類されうるものだった。ボクは理解を放棄して短く息を吸う。ぎこちなく足音の発生源へと向けた口から、鋭い制止が迸った。

「来るな! 来ちゃダメだ……ッ!」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちにまた腹部を撃ち抜かれて転がる。アイカが息を呑む音がする。ボクの言葉を聞き入れてくれたのか、足音も止んだ。

 ボクからの情報流出を恐れて抹殺したいだけならさっさと機核(コア)を破壊してくれればいいのに、射手が下手なのか装備の取り扱いに慣れていないのか、見当違いで掠めもしていない。痛覚を刺激するだけなんていたぶっているようにしか思えなかった。趣味が悪い連中だ。

 でも、地上へ必要以上の干渉をしないためか、奴らは下りてこようとはしなかった。あんな巨体が周りへの影響を考えず動いたならば、その余波だけで森は滅茶苦茶になってしまうだろう。木陰に横たわったまま詰めた息を吐き出した。

- CQ; CQ; CQ -

 ああ、ダメだ。願っちゃダメだ。もっと話したかったなんて。

 少し想いを巡らせればすぐに脳裡(のうり)に甦るアイカの声。顔いっぱいで笑っていて、見なくてもわかるほどそれは声に表れて、いつでも弾んで楽しげで。それでもあの笑顔は見たくなって、想像しながら顔を見つめて、そこに思い描いた通りのそれがあって。閉じた瞼の裏に理想的な未来が映っていた。

 ……ひとりは嫌だな。

 始まりの檻の中では、目に映るものをひたすらに疎んでいた。動的な物として歩き回る研究者たちの姿や、跳ね回るグラフを認めながら、それらをぼうっと眺めるのみであることに退屈さを感じていた。

 それも誰かが居ただけ、ましだった。

 たとえ事務的な会話であっても、自分を交えないやり取りだったとしても、独りでいるよりいい。――だけど。

やっぱり足りないや。哀しいな、と思った。

 意志在る者に世界が応えたとき、世界は途方もなく残酷になる。その実現性を問わずして、果てのない望みを断続的かつ連鎖的に呼び起こしてしまうから。

 もはやボクが会話に求めたのはただの有機性に(とど)まらなくなっていた。あのぬくもりを知ってしまった後で、どうして妥協なんてできるだろう?

 些細と言えば些細な話だ。そんなものに縋るのも馬鹿げてはいた。ただ、他人の存在が自分にもたらすひとつまみほどの安心が欠けていることに、ボクは幾らか不機嫌だったのだろう。

 少しずつぼやけていくプログラムの片隅で、思考という名の電気信号が飛び交う。

 アイカ、どうして追ってきたんだい。執行者たちは、きっとアイカのことを狙わないだろうから……安全では、あるだろうけど……。

 意識が鮮明さを無くして滲みだす。世界が色褪せていく。

 白黒めいた夜空の色がひどく冷ややかに見えた。満月が皮肉げに笑っていた。ボクはわずかに強張った手を伸ばし、宙を掴んで苦く自嘲する。

 元から悟っていたはずなのにな。

 単なる造られた存在に過ぎないボクが、夢なんて作れるはずないって。

 月光は神秘的に見えて優しさの持ち合わせもない。太陽を映すだけの鏡は、それ自体どんな(さが)も持たないのだから。

 - I: CQ CQ -

 見つめないでよ。こんなぼろぼろのボク、見せたくないよ。

 ボクを見つめるたびに、君の手が震える。その瞳が夜色に潤む。

 ――そんな顔をさせるために、出逢った訳じゃない。

 今更、ボクは胸の中で時たま弾ける処理不可能な揺らぎ、宛ても知らない思慕の行方を知った。それはクロスではないし、森の住人たちでもない。

 アイカの大きな円い目から、大粒の涙が一つ、ぽたりと落ちた。それをボクは頬で感じる。

 あたたかい、とおもった。

 指先から爪先に至るまで触れた地面の温度を意識できないほどに冷え切った体。仮初めの体温が、傷口から容赦なくどろどろと流れ出していくようだった。その中で、頬がじんわりと熱かった。いくら表面を伝おうと、生物でないこの体に染み込むことはないのに。たとえ染み込んだとしても、もうボクの全ては何の役にも立たないだろうに、ボクのためだけの涙がひどく嬉しくなって、ああボクは馬鹿だと、無意識に嗤っていた。

「……どうして、こんな……」

 痙攣の如く細かく震えていた彼女の指先は、意を決したようにボクに伸ばされ、そっと頬の輪郭をなぞる。

「生きてるよね、キミ?」

「……そんなに、つめたいかな、ボクは……?」

「冷たいよ! 心臓がどっかに行っちゃったみたいだよ……! ねえ、しんじゃったりしないよね?」

 頷くことも首を振ることもできなかった。本当のことを言う勇気もないくせに、嘘を吐いて誤魔化してみせるほどの強がりも消え失せていた。ボクを動かしていた原動力は、その源ごと彼女の優しさに包まれて溶かされ、なくなっていた。そしてボクはようやく実感するのだ。クロスの言葉が本当だったことを。

 簡単なことだ。ひどく簡単なことだった。

 『忘れられたくなかった』んだ。

 ボクがここに居たことを、確かに存在していたことを、誰かに憶えていて欲しかった。

 ここに居てもいいんだよ、って一言存在を認めてもらいたかった。

 自覚したところで、もう、間に合わないのに。

 - CQ; I CQ -

 ああ、なんなんだよ、もう。

 嫌だな、キミの頬に伝う雫が月明かりのせいで不思議とはっきり見えて、また満月を睨み付けてやりたくなる。でも、そんなことに割くほどの時間はない。それならキミを見ていたいと、そう言った通りに。

 ……でも、見たくないよ、そんな顔。どうして顔をくしゃくしゃにして……。

 ボクがキミをそうさせたのか? じゃあ、出逢わなければ良かったのかな。

 独り善がりなのは、よくわかっているけれど。でもボクは、君に逢いに行くのが本当に楽しみだったんだ。キミと窓際でお喋りするのは、とても楽しかったんだ。

「……ごめん、ね……」

かろうじて絞り出した声は掠れきっていて、アイカが聞き取れたかどうかも確信が持てなかった。アイカは宙に雫を散らしながら何度も首を振った。例えようもなく疼いた感情を抑えようと、ボクはぎゅっと目を瞑る。そのとき、冷えた黒土の感触が突如遠ざかった。徐々に熱を帯びた腕を知覚する。アイカはボクをそっと抱き上げていた。

「何で、どうしてこんなにひどい怪我……」

 キミも見てたろ、と言いかけて口をつぐんだ。目の前で体が光線に貫かれる瞬間を見た彼女が忘れるわけがない。もっと遡って、ボクが狙われた理由を疑問に思ったんだろう。

 口をついて出たのは真実(うそ)だった。

「……ボクは、月のウサギなんだ……」

「またお得意の嘘? そんなの、今はいいんだってば……!」

「……だから、本当は……ここに来ちゃダメだったのに……来てたから……」

 こんな真実(うそ)で良かっただろうか、とぼんやり思った。

 いや、もっとましな嘘がこの場にはお似合いだったろう。平気な顔をして、上手く気を逸らすような一言を吐ければよかったのに、そんな思考は回らなくなっていた。もしかしたら単に、嘘を吐きたくなかっただけかもしれない。最期の最期でそんなくだらない一言に余力を割いてたまるかと、ボクの心のまだ素直だった部分が叫んでいたのかもしれなかった。

「ねえ、ライア。どうしてそんなことしたのか教えて」

 アイカは凪いだ水面のような静かな瞳をしてボクに尋ねた。そこに嘘を疑う様子は欠片も無い。

「……え……?」

「だって、解ってたんでしょ。最初から、ずっとここに通っていたら、いつかはこうなっちゃうんだって」

 ボクは黙ってうなずいた。しかしそこに明確な答えが付随できなかったのは、ボク自身にも理解できていなかったからだ。

 ――それは嘘。

 ボクはただ、知らない地上を歩き回るのが好きで。

 ――それも嘘。

 きっと、ボクを受け入れて話をしてくれることを思いのほか気に入っていただけの。

 ――それも……嘘。

 

 ばか。いつまで嘘吐く必要があるんだよ?

 

 誰の声?

 ううん、聞き覚えがある。ボクの前でより生物らしく小さな鋼とネジとボルトの塊に果てた弟。クロスだ。

 ボクはきっと、誰よりも自分に嘘を吐いていたのだろう。その理由もごく簡単なことだった。世界に触れないこの嘘は、誰も何も歪めない。ボクの世界が曇るかどうか、そんな誰も気に留めない寂寞な差異の始まりに過ぎない。ボクが意識に残さなければ、それこそ容易に意味を消し飛ばしてしまえる。

 だから、話そうと思ったのに。

 鈍痛が意識を侵食し出して、大事な想いさえ覆われそうになる。このまま胸中に留めていたって何になるだろう。傾けた器から摂理の通りに水が淋漓と滴りだす。

「ボクは、本当は……」

 

 ――キミに、憶えていて欲しかったんだ。

 

 違えようもない真実。それは、きちんと言葉になったのだろうか?

 継ぎ接ぎの身体から体温が零れ落ちていった末に、ボクはもはやアイカの手の温度すら感じられなくなっていく。

「……――!? ――、――……!」

 - I CQ CQ -

 え? なんて言っているんだい……わからないよ。もう少し大きい声で……聞こえないってば。

 ……聞こえないよ。キミの声が。

 ぽた、ぽたた。ボクの全身にあたたかな雨が降り注ぐ。表面だけの毛並みを濡らしていく。もうすぐボクは、それすらわからなくなる、のに。

 こんな卑怯な方法は、ないよなぁ。

 目の前で死ぬなんて、狡いボクらしい覚えられ方だ、と思った。心に傷として遺った、既に失われてしまったものなんて、誰だって忘れられるわけない。そのくせして、そんな卑怯者にもこの腕の温もりは優しくて。

 ボクは一体どうすればよかったのか? それを考え直すことはもう二度と叶わないけれど、

 ボクは安息を放り棄ててアイカの腕の中からするりと抜けだすと、今も出血の止まらない足を引きずり、その場から駆け出してしまったのだった。

 本当に本当に、いたかった。

 一歩大地を踏みしめるたびに、火炎が体中を舐め回すような激痛が走る。一瞬でも気を抜けばきっと、痛みに耐えられず絶叫してしまっただろう。アイカまで届くような吼え声を上げてしまっただろう。だから歯を食いしばって、喉元で跳ね回るその声すら噛み殺した。

 自分の行動のぶれを認めて、苦く笑っていた。結局何がしたかったのかなんて、知るもんか。衝動的としか形容できないボクの行動の是非を今更問うたところで、どうなるって言うんだ。

 ただ、あらゆることが理解不能に思える中で、一つだけボクにも判別のつく意志があった。アイカの前で死にたくなかった、ということ。

 いつの間にかボクの身体は限界を迎えて、黒々とした地面に倒れ込んでいた。痛い。思考の大半がそれに占められた。じゃあその思考の余白は何に塗り潰されたかというと、奇妙な安心感だ。アイカの居たところから、相当遠ざかったろう。もう見つからない。

 悲しくてたまらないくせに、嬉しくて仕方なかった。

 これを壊れていると評したのはきっと機械の自分。

 これを誇らしいと評したのは、少しでも心を形作れた自分だった。

 この矛盾が心なのか、と明滅する意識の中でふと思う。アイカが来る前は、誰かに見つけて欲しかった。一人で散りたくなんてなかった。でも、来てしまった後はここで死んじゃダメだ、見つけられちゃダメだと喚き散らしていた。

「ライア……っ!」

 遠く、声が聞こえる。もうボクの耳は機能していないはずだ。だからこれも幻聴。だけどボクは思う。そして笑っていた。

 ……ありがとう。

 居てくれて、呼んでくれて、ありがとう。

 - CQ; C…Q; ……C…Q…… -

 この信号はもう誰にも届かない。

 ボクの『届いて』の声は、こんな形でしか表せない。

 けれど、それを受け取ってくれた彼女が居るのだから。

 その愛を受けて居なくなろうか。

 

 頭上の満月が悪戯っぽく微笑んでいた。

 影の中で動かないボクを欠片も照らすことなく、ただ静かに。