茶瑚川の廃墟
茶瑚川は、なんとなく春を迎えていた。
河川敷でぼんやりとしていれば雲雀は飛んで来るし、コンクリートに固められた岸へ打ち付ける水が、ぽちゃぽちゃと音をたてていた。座り込んでいる陽だまりも暖かい。
「おや。・・・待ったかい。」
後ろにふと人の気配を感じたと思うと、頭上から声が降り注いだ。
「別に。ぼんやりしてただけだよ。」
「そう。」
その人は頷いて、隣に腰を下ろした。
日差しが少し西へ傾きかけていて、薄青い空に蜜色の光が輝き始めた頃合いの、ゆるい午後だった。雲も、風も、やわらかいねこじゃらしも茶瑚川も、陽の光がそっと風合いをぬりかえてゆく。隣を振り向くと、それと同じように彼女の黒い髪の毛も艶やかに輝きはじめていた。
「ね、帆香。」
「なに?」
「このあいだね、わたし、危うく友達に怒っちゃいそうになってね・・・。」
帆香は、その辺に転がっている葦の茎を、ぶちっ、ぶちっ、とやりつつ、顔を上げた。
「珍しいじゃん。夕香が怒るとか・・・。」
「うん。大したことじゃなかったんだけどさ。なんかそのときだけ過敏になっちゃって。」
「あー。あれか・・・死ぬの死なないの、云々の話だっけ。」
夕香は頷き、ふうっと、風のようなため息をついた。
「不幸自慢が好きな子なんだよね。」
夕香の友だちに―――決して嫌いな訳ではないが―――そういう子がいるのだということは、帆香も少しだけ聞いたことがあるような気がした。
「その子はその子でつらいこともあったんだろうけど。いかにもちっぽけで、苛々しちゃって。」
「中二病こじらしたんだろ。許してやれよ。」
あっさり切り捨てた帆香に、夕香はぷっと吹き出した。
「まあね。―――だってその子、死にたいほど辛いことが山ほどあっても、理想的な死を見つけることが生きる意義だから、とか言い出してさ。」
それ本気で考えてるんだから、返事に困るわ、と夕香は困った笑い方をした。
「そういう人ほど、簡単には死なないから。」
夕香は何も言わす、うん、とだけ頷いた。
その拍子に揺れた、セミロングの髪の毛が茶色くひかるのを帆香は眩しそうに見つめていた。
「ねえ。廃墟行こうか。」
―――その幼い子は、傷だらけで泣きじゃくっていた。
「何でだろ?」
隣にいた可愛らしいおかっぱ頭の黒髪の少女は、途方に暮れたような、怒りを押し殺したような、今にも顔を痙攣させてしまいそうなほどのさまざまな感情を浮かべていた。
それを抱えたまま、彼女はどうにかこうにかその泣きじゃくる女の子の肩をさすっていた。
「何で、何されたの?」
茶髪の少女は、震えたまま首を振った。
「・・・もしかして、熱、出てる?」
黒髪の少女はいよいよ泣きそうになっていたが、唇をかんで彼女の傷を拭い始めた。
「大丈夫、大丈夫・・・。」
赤い陽はいよいよ熟れ落ちそうになっていて、川面は静かだった。
しばらく何も音がなかったが、・・・ふいに足音が聞こえた。
「夕香ちゃん⁉」
同時に一人の女の人の声が割り込んできて、二人はびくっと体を震わせた。
「夕香ちゃん、こんなとこで何やってるの!」
夕香は顔を上げず、帆香は高い女の声にぎゅっと顔をしかめて彼女を睨み付けた。
女の人は、それが目に入っていないようだった。
「あら、あらら、帆香ちゃんまで・・・。ああ、もう」
女の人もまた、さっきの帆香のような途方に暮れた顔をしたが、そこには確かに安堵も混ざっていた。サンダルの音をさせて、二人の方へ歩み寄るとため息をつく。
「こんな熱も出てるのに・・・。帰るわよ、夕―――」
「―――寄るなっ‼」
その女の人の手が、夕香にかかる直前、帆香が険しい顔で女を怒鳴りつけた。
「夕香を連れていかないで‼ お前が夕香に触らないでっ」
帆香は夕香を庇うように立つと、女を憎悪の目で睨み付けた。
女は対照的に疲れたようなため息をもう一度つくと、帆香を見やった。
「帆香ちゃん、そんなことしてる場合じゃないのよ。夕香は今お熱が出てるの・・・。」
「知ってるよそんなこと!」
帆香は激しく首を振って、夕香はいっそう泣き出した。
女は呆れたような、苛立ったようなため息を三度つくと、二人の肩をぐいっと引き寄せた。
「ほら夕香、おいで。そんなに泣かなくたって、何もしないから―――。」
「嫌だ、帰らない。」
「へ?」
前を歩く帆香が、怪訝な顔をして夕香を振り向いた。
「あ・・・・・・ごめん、なんでもなかった。」
「・・・。」
帆香は黙って夕香を見つめて、夕香はとりあえず視線をガラスのない窓の外へと逸らし、それをいなしていた。
二人は、もう廃墟の中だった。
「学校でも、そんな風になることある?」
「・・・。ない。」
「だろうね。」
「学校は、なんだろ・・・そういうことを考えるとこじゃないから。ここと、学校とではその、次元が半分くらい違う感じ。」
「私もだよ。学校にいれば、ここが異次元みたいだし。ここにいれば学校なんて夢の中、みたいだし。」
夕香は笑った。
「そうそう、そんな感じ。」
「だから学校で、時々怖いよね。」
「うん。」
二人は微笑を浮かべていたが、それはただの空っぽだった。曖昧なその笑みは、不安がそうさせているのだ。
自分が行き来する二つの人格のような世界を、いつか混同してしまわないかどうか。
もし学校で、〝こっち〟の自分たちがうっかり顔を出してしまったら。
「人の世に 住まう狐の 哀しきや」
「何だっけ、それ。」
「忘れた。」
外はもう暗くなっていて、地平線近くをオレンジ色の月がのぼっていた。風が「春の宵」。いい匂いがして、ふっと夜桜の幻覚を見そうで、まるで夢の中のような。
春の夜はいつもそうだ。
―――その幼い子たちは、必死で逃げていた。
はあっ、はあっ、と荒い二つの息が小さく路地裏に響く。
「どこっ、どこ行こうっ⁉」
「こっち‼」
帆香が夕香を引っ張り込んで、夕香は必死で後ろをふりきって・・・二人は足を止めることなく走っていた。
鬼が、追ってきていた。
四月のある日の、すでに夜半をまわっていた。
角を曲がる。砂利を蹴散らしたら、狗さえも吠える。
と、ずざざざっ、とひどい音がして、帆香が足を滑らせた。
「帆香っ。」
「いいから!」
茶瑚川の普段の河川敷よりもっと奥に来ていた。後ろになお迫る気配に、どうしようもなく夕香は帆香に飛びつく。飛びついて、帆香を土手下へ引きずり込んだ。
「夕香!」
帆香を引っ張り、夕香がさらに走った。
月夜に黒光りする瓦と、ぼうっと光る白壁の間を抜ける。
石垣からのぞく淡紅桜がぱっと舞い散り、踏みつけた細枝が折れる音がした。
鬼が、闇が背後まで忍び寄ってくる。
「あれ―――あれに、追いつかれちゃだめ!」
桜の夜は、鬼の夢―――。
嗚咽を噛み殺して走り込んだのは、雑木林にぽっかりと口を開ける苔むした廃墟だった。
「ねえ、夕香。」
三階の、石だけの窓辺から身を乗り出して、帆香が訊いた。
「なあに。」
夕香は、その一つ隣から同じように身を乗り出して、こたえた。
「一つだけ何でも願い事が叶うとしたら、何を願う?」
「え? あ。う~ん・・・。」
あの日そっくりに、綺麗な月夜に映える五分咲きの桜。それを眺めつつ、夕香は少し首を傾げた。
「・・・このまま。かな。」
「このまま?」
「うん。学校にも行って、ここにも来て。誰にもばれずにこのままでいたい。」
「そっか。そうだね。」
帆香もまた、茫洋としたまなざしを空へ解き放って頷いた。
「・・・普通の幸せ、って、欲しくて得難い夢だけど。それが今叶ったところで、今更私たち、そんな風に暮らしてはいけない気がする。」
「だね。」
夕香は、茶色い髪を月光にきらめかせて、頷いた。
「檻の中 いちわ兎の 寂しきや」
「・・・。何だっけ、それ。」
「覚えてない。」
夕香は夜風のようにほほ笑んだ。
「なんだ。」
帆香は星のかけらように、くすくすと笑った。
しかしすぐにそれも微笑に収めて、帆香はふいに夕香の顔を覗き込んだ。
「夕香は寂しいの?」
「え?」
虚を突かれたように、夕香は帆香を見た。
帆香はきれいな黒髪に星を散らして、潤んだような黒目のやり場を茶瑚川の方へと落としている。
「別に、そんなことない。」
「・・・ほんとか?」
「当たり前じゃん。」
夕香が笑うと、帆香の横顔もふっと笑い「あっそ」と素っ気ない返事が返ってきた。
「もし寂しかったら、お願いごとに『このまま』なんて言わないよ。」
「だね。」
いつの間にか、月はもう少し高いところまできて、冴えた光を放っている。空の闇はもう少し深くなって・・・。
星だけが変わらない光を、街の上に浮かべていた。
「やめろ‼ 離せ、離せってばっ‼」
夜の深い空ですら吸い込み切れなさそうな、ひどい怒号と、ひどい喚き声と、ひどい泣き声が響き渡っていた。
「離してよ‼」
鬼が来た。
とうとう、見つかった。
鬼は一人ではなく、強いのも、怖いのも、優しいのも、泣いているのもいた。
「帆香ぁっ」
「みんな殺す‼ 八つ裂きにしてやるから‼」
抗っても、抗いきれるものではなかった。
夕香は怖いのに引っ張り上げられて、帆香は強いのに押さえつけられた。
ごつごつした腕が体に食い込んでくる。
むせ返って、涙ぐんで、だんだん声が出なくなってきて、それでも夕香の泣き声はずっと帆香の耳に響き続けている。
「帆香、帆香! 嫌だ離して―――私が殺す‼」
鬼たちも何か喚いている。
耳元で、あんまりうるさいので頭がぼんやりとしていたら、唐突に鼓膜をつんざく甲高い声が、私たちを怒鳴りつけた。
『あれほど言ったのに‼ あれほど私は―――あなたたちは、何で・・・っ‼』
直後、目の前に広がった黒いモノは何だっただろう。
そこから先の記憶はもうない。
✾* ・・・* ✾* ・・・* *✾* ・・・* ✾*
後々に知ったことだ。
結局、間違っていたのは私たちだった。
正しいのは『皆』だった。
鬼だったのは、皆ではなく、
私たちが鬼だったんだ。
「はぁ~あ。」
目をしょぼしょぼさせて、帆香が眠そうなため息をついた。
「疲れた。」
「うん。疲れたね。」
七歳の時、二人が更生施設に入ってから、その母親は心を病んで精神病院へ入院した。彼女は、夕香にとっての母、帆香にとっての叔母で義母。もとはいとこ同士の二人だったが、帆香の母は二人が知るところの記憶にはすでにいない。
あの当時の「殺す」が一体、どうなったのかはもう、錯乱状態だった夕香と帆香の記憶にはなかったが、自分たちの実態はなんとなく把握していた。
サイコパス。夕香も帆香も、なにかの拍子に鬼としてとらえてしまった自らの母を殺そうとしていたこと。また、夕香は特に重傷で、極度のパラノイアと自傷行為を患っていたことも。
三年間施設に閉じ込められ、名前を変えられ、後の学校では学年もどうやら一つずらされたらしいから、当時の出来事もあまりただことではなかったのだろうな、と、二人は漠然と知っている。
「でもさあ。」
「んー?」
満月の煌々と照らす月あかりの下、戻り道を歩きながら、帆香は口を開いた。
「別に、にっちもさっちもいかなくなったところで死んじゃうほど、ヒトって単純じゃないんだよね。」
「うん。」
夕香はふっと息をついてから、「あ、さっきの話か?」と気づいて笑い出した。
「そうだねえ。―――人って、自己放棄したにしても、勝手に生きてく生き物だからね。」
放っておいたってお腹空いちゃうし。そしたらいつの間にかご飯とか、食べてるし。
そういうと、また二人は笑い出す。
茶瑚川の岸辺をゆったりと行く鬼の子たちは、弥勒のようだった。美しく、不可思議。ただ、この夜の時にふらふらと廃墟から出てくるような子は、明らかに鬼の子に違いないのだ。
きっと世間の人たちは皆、気づいていないのだろう。
母までもを狂わせた凶暴な鬼の子たちの、その本当の正体。それは、
―――哀しき狐と、寂しき兎だ、という事実に。