不透明モジュレーション

 

 「おれ、人のオーラ見えるねん、オーラ」とイシちゃんが言ってくるのは、飲み会ではいつものことらしい。さっき女子トイレに行ったとき、ののちゃんがこっそり教えてくれた。わたしはあんまりこういう場所に来たことがなかったので、酔うとイシちゃんがあんなふうになるなんて知らなかった。普段でもときどき冗談は言うけれど、基本的にマジメな人だったから、そんなイシちゃんを見るのは少し意外だった。

 その日、写真サークルの飲み会にわたしが参加することになったのは、ののちゃんに誘われたからだった。いつもはそれなりに人数が集まるらしいのだけれど、今回はなぜだか参加率が低くて、急遽わたしが呼ばれることになった。このお店では十人以上いないと学生限定の飲み放題コースが頼めないらしい。飲み会みたいな騒がしい場所は得意じゃないから滅多に来ることはないのだけれど、その日はなんとなく行ってもいいかな、という気になった。ののちゃんの頼みなら断れないし、それにイシちゃんの新しい一面も見られたので、まあ結果的にもいいかなと思う。

 どうやらイシちゃんはスピリチュアル系の話をすれば女の子は飛びついてくるだろうと勝手に思っているらしい。たしかに、そういう話が好きな女の子は多いだろうし、たとえイシちゃんの„オーラが見える力”を本気で信じてなかったとしても、「えー、ホントにー? じゃあ、わたしのも見てよー」くらいは言うかもしれない。

けれど、残念。

 わたしにイシちゃんのその手法は通じない。だって„人の色”なら、わたしにだって見えるもん。イシちゃんは赤色。ののちゃんは青色。向こうの席で飲んでるサクやんは黄色。

 

 でも、似たような手法になら、前に榊くんにやられたことがあったなと、わたしはもうほとんどなくなってしまったほっけの開きを箸で突きながら思い出していた。

 榊くんはオーラじゃなくて、手相占いという手法を使ってきた。

「手相?」

「そう、手相。今日は特別にタダで見てあげるよ」

「いつもはお金取ってるん?」

「え……あ、いや、取ったことはないよ。言っちゃうと、ちょっと本で読んで身につけた程度の知識だしね」

 正直な人だな。そう思った。

「そうなんや。でも、タダやったら見てもらおっかな」

「おっ、ホントに? じゃあ、左手見せて」

 オーラならわたしにも見えるけれど、手相のことはわからない。

「初倉さんは……うん、普通に長生きだね」

「普通にって?」

「えっーと、八十歳くらい? 平均寿命くらいまで生きるよ」

「そうなんや」

「何回か短い入院はするかもしれないけど、大きな病気や怪我は特になし。三十歳くらいで結婚をして、二人の子どもを産んで、上は女の子で下は男の子」

「そんなことまでわかるん?」

「ごめん、後半は妄想。でもきっと、悪くない人生だよ」

 やっぱり正直な人だ。そう思った。

 榊くんの硬い人差し指が、わたしの左手の運命線をくすぐったあの時の感触は、いまでもときどき思い出すことがある。榊くんはいったいどこに行ってしまったんだろう。行方知れず。二ヶ月前に、彼は姿をくらました。最後に見た彼の色は、不透明。

 

「初倉さんは、薄い青色やな。青色は冷静さとか理知的な人のオーラや。うん、まあ初倉さんクールなところあるしなぁ」

 トイレから戻ってきても、イシちゃんのオーラの話は続いていた。たぶん、他のメンバーにはこれまでの飲み会で散々その話をしたから、相手にしてくれないんだと思う。わたしもあまりオーラの話には興味がないのだけれど、イシちゃんが楽しそうだったので付き合ってあげることにした。

「クールかなぁ、わたし」

「うんうん、だって今もお酒飲んでるのに全然普段と変わらへんやん」

「あんまり強くないから飲んでへんだけやって」

「いやぁ、でも、おれなんて三杯飲んだだけでもうくらくらやで」

「それはイシちゃんが弱過ぎるだけやん……」

 しかもその三杯って、カシスオレンジ三杯じゃない。弱いんだったら、飲まなきゃいいのに。

「でも、お酒飲むとオーラ見えるようになるねん、おれ」

 それはすごいというよりか、やばいんじゃないだろうか。幻覚とか何かなんじゃないだろうか。わたしは思わず呆れてしまった。わたしのなかのイシちゃんのイメージがどんどん崩れていく。

「次はウーロン茶にしようね」とさりげなく促すと、「やっぱり初倉さんは冷静やなぁ。うんうん」とイシちゃんは一人で勝手に納得していた。

「もう綾ちゃん、イシちゃんなんて放って置けばいいんだよ」

  見ていたののちゃんが、呆れた表情をする。

「山川さんはひどいなぁ、初倉さんとは大違いや」

 イシちゃんはぶつぶつと文句を返す。たしかに酔ったイシちゃんの相手は少し面倒くさいけれど、なぜだかわたしはイシちゃんを放って置けなかった。ののちゃんはたぶんそんなわたしの性分をわかっている。

 

「なぁ、イシちゃん」

「ん、なあに?」

「まだオーラって見えるん?」

「おう、見えるで。むしろさっきよりよく見える」

 つまりさっきより酔いが回っているということだ。いまはウーロン茶を飲んでいるはずなのにおかしいなぁ。

「ののちゃんは、イシちゃんには何色に見えるん?」

「山川さん?」

 わたしは少し気になって、そんなことを聞いてしまった。別にイシちゃんの力を信じているわけではないけれど、なんとなく、確認しておきたかったのだ。

「山川さんは……緑やな」

「緑?」

「そう、緑。若干黄緑っぽい緑かな」

「緑は、どんな人の色なん?」

「そうやなぁ、緑はさみしがり屋の人の色や」

「そっかぁ」

「うん、そうやねんでぇ」

 わたしは両手を目の前に伸ばして、自分の色を確認してみた。

 わたしの色は、やっぱり今日も緑色だった。お酒を飲んでも緑色。逆にののちゃんのいまの色は、わたしには薄い青色に見えた。イシちゃんの力が本物かどうかはわからないけれど、見事にわたしが見えている色と逆のものがイシちゃんには見えているらしい。

「わたしは、薄い青色やねんな?」

「そうやで。おれと同じ色や」

 わたしは思わず笑ってしまった。イシちゃんはやっぱり面白い人だ。いまの彼のいったいどこが冷静で理知的というのだろうか。

「青色って、ええ色やんな。わたし、青色好き」

「そうやなぁ、ええ色や、青色は」

 もし本当に、わたしの色が青色だったら、わたしは榊くんと恋人同士になれたのかな。青色は、わたしの持っていない色の一つだった。だから青色には少し憧れちゃう。

 左手の手の平を、冷房の風がくすぐった気がして、わたしは寂しくなって、もう一口だけ梅酒を口にした。水割りの梅酒は、甘酸っぱい味がしただけで、全然アルコールの味はしなかった。

 

 薬を飲んだ後に「なんでこんなに眠いんやろ」と考えてしまうくせをいい加減に治したいのだけれど、どうやら治ってくれそうにもない。それはきっと、人の色が見えてしまうことと同じように、わたしにずっと付きまとう。

 今日もお昼ごはんの後にカルピスで薬を胃に流しこんで、三時限目の大教室。サクやんの隣で「なんでこんなに眠いんやろ」って、彼が一生懸命レジュメに書き込んでいるのをぼっーとみつめながら、ついつい考えてしまっていた。

 誰かがペンを落とした音が聞こえて、その音がした方を見てみると、ペンを落としたのはののちゃんで、ふと目が合って、くすくすとわたしたちは一緒になって笑った。今日はののちゃん、大学に来てたんや。   

 彼女の色はいつも淡い。今日の色は薄いベージュ。サクやんはオレンジ色。頑張ってる時はオレンジ色。好きなアイドルのことを考えてる時はピンク色。そのどっちでもない時は黄色。わかりやすい。色が少ない人には優しい人が多い気がする。もちろん、サクやんは優しい。優しすぎるくらい。

 「そういえばお昼に薬飲んだんやった」とわたしがようやく思い出したのは、そうやって二人の色を確認していた時だった。薬を飲むとびっくりするくらい眠くなる。だからなるべく午後に授業がある時は飲まないようにしているのだけれど、今日はやけに頭が痛かったので我慢できなかった。昨夜、お酒を飲んだせいだろうか。二日酔いになるほど飲んだつもりはないのだけれど、お酒を飲むこと自体ひさしぶりのことだったから、体の調子が狂っちゃったのかもしれない。

 

 ののちゃんはどうやら全然平気みたい。昨日はわたしよりもうんとたくさん飲んでいたはずなのに、お酒、強い方なのかな。でもたしかこの前サクやんが言っていた。ののちゃんがお酒をよく飲むようになったのはついさいきんのことだって。昨日の飲み会での様子を見る限り、ののちゃんは飲んでもあまりテンションが上がったり性格が変わったりする方ではないみたいだけれど、帰り道、ちょっとふらつきながら歩いている彼女を見て、少しだけ心配になった。

「ののちゃん大丈夫? ちゃんと家まで帰れる?」

「うん、たぶん……」

「わたしじゃ背負って帰れないからね」

「わかってるよぉ、うん、わかってる……」

 ののちゃんはときどき、ふと寂しそうな表情をする時がある。そんな時はぱあっと、彼女の色も変わる。薄い青色。その色を見ると、わたしは榊くんのことを思い出してしまう。きっとその色になる時は、ののちゃんも榊くんのことを思い出してる時なんだと思う。だから寂しそうな表情をする。

 二人の色は混ざり合うようにして、いつも同じ色をしていた。だから、わたしは榊くんのことをきっぱりと諦めたのだ。ののちゃんと榊くんはとてもお似合いの恋人同士だったから。

「榊くん、どこ行ったんやろうね」

「えっ」

 わたしが榊くんの名前を出すと、ののちゃんは案の定驚いた表情をした。少し伸びてきた茶色のボブ、大きな黒目がちの瞳、薄いピンクの唇、お酒に酔った赤のチーク。榊くんの、薄い青色。

「東京で、占い師とかやってたりして。手相の」

「ふふっ」

「深夜のさ、池袋とかで。こう、和服みたいのを着てさ、座ってるの」

「ふふふ」

 どうやらお酒に酔うと、ののちゃんは笑い方が変わるらしい。その笑い方が面白いので、わたしは話を続けた。

「飲み会帰りの通りすがりの女の子とかにさ、『どう、占いしていかない?』とか声かけてるの」

「なにそれ」

「それで、女の子がどうしようかなーって迷ってたら『今日は特別にタダで見てあげるよ』って言うの」

「ふふっ、それじゃあ、食っていけへんやん」

「うーん、そうやね。どうやってお金稼いでるんやろ、榊くん。貯金とか結構あったんかな」

「それは、ないよ。だって、バイトとかすぐにやめちゃうんだよ。二ヶ月以上保ったことないんやから。ダメダメだよ」

「うんうん、榊くんはダメダメだよ」

 だって、こんなに可愛くて、優しいののちゃんを黙って置いて行っちゃうような人だもん。

「そうだよ。ほんとうに。そうだよ……」

 道の両脇には街灯が並んでいて、わたしとののちゃんの影を交差させたり離したりを繰り返していた。

「綾ちゃん、夏休み、東京行こ、東京」

「東京? なんで東京?」

「ええやん、東京。わたし行ってみたいわぁ」

「別にええけど。でも、東京って近いようで遠いで」

「それがええんやん。本当の遠くへ行くんは怖いけど、それくらいの距離やったらすぐに帰ってこれるやろ」

 そう言ったののちゃんの色は、いつのまにか白色になっていた。白色は、限りなく透明に近い色だとわたしは思う。ののちゃんのその色は、やっぱりどこか、榊くんの色に似ていた。

 

 ぽんぽんと、頭を二度撫でられた。手の感触でわかる。この手はサクやんの手だ。それをきっかけに、ぼやけていた頭の中がだんだんと動き出す。やけに騒がしい周りの音が、耳から入ってくる。曖昧な視界に、白い手。これはわたしの手だ。緑色。それからは、たくさん光が入ってきて、一気に目が覚めてきた。白くて強い光は、まるで朝の太陽のようだったけれど、いまはたしかにお昼と夕方の間だった。

「授業、終わったよ」

 顔を上げると、みんなが教室を出て行ってるところだった。どうやらいつのまにか眠ってしまっていたみたい。やっぱりダメだったかと、わたしは心のなかでため息をつく。午睡のあとは、なんだかお風呂上がりみたいに体が熱い。胸にも脇にも膝の裏にも、汗をかいているのがわかる。

「薬飲んだのか?」

「うん」

「眠そうだな」

「うん、眠い」

「四限ないんやろ? 部室で寝てきたら?」

「あそこクーラーないから暑いやん」

「じゃあ、図書館」

「図書館は寝るところじゃないと思う」

「なんやねん、じゃあ俺んち来るか?」

「……ばーか」

「冗談やって」

 たしかにサクやんの家は大学から近くて、少し休むには最適な場所だったけれど、もうサクやんの彼女でもないわたしが彼の家に一人で行くのはやっぱりおかしい気がしたし、行っちゃダメな気がした。

「今日は、もう帰る」

「そうか。じゃあ、また明日な」

 そう言って、サクやんはまだ椅子に座ったままのわたしの頭を、もう一度ぽんぽんと撫でた。サクやんは人の頭を撫でるのが好きだ。特にわたしの頭を撫でるのが好きみたい。女の子によっては髪型が崩れるからと言って、撫でられるのを嫌う子もいるけれど、わたしは別に気にしない。むしろサクやんに撫でられると、ほっとする。やっぱりわたしはサクやんのことがまだ好きなのかもしれない。けれど恋人同士ではなくてもいいとは思う。一緒にいられるなら、それでいいって。

 そろそろ次の講義の人たちが教室に入り始めていたので、わたしは荷物をまとめて席を立った。階段側の入り口を出たところで、ののちゃんに会う。どうやら待ってくれていたみたい。教室の内と外では全然温度が違ったので、体がびっくりする。そんなわたしを見て、ののちゃんは笑った。

「語彙論、出えへんの?」

「サクやんに聞いたん?」

「うん。綾ちゃんがおらへんかったら、わたし語彙論一人やん」

「先週はわたしが一人だったよ?」

「そうやったっけ? あ、そうやな。ほんまや。じゃあ、おあいこや。来週は一緒に出ような」

「うん。ごめんね」

「こっちこそごめんな。やっぱり昨日無理に誘ったんがあかんかったな」

「いや、ののちゃんは悪くないよ。お酒飲んだのはわたしだし。それに結構楽しかったし」

「そう? でもずっとイシちゃんの世話してたし、疲れたやろ?」

「ううん、イシちゃん面白かったよ。ああいうの、世話するん好きやし」

「綾ちゃんそういうところあるもんなぁ。でも、ああいうのは放っておくのが一番やと思うで」

「そうかなぁ、それやったらイシちゃんがかわいそうやない?」

「綾ちゃんは本気でそれ言うてるんやからすごいわぁ。なんでやろ、サクヤくんは全然そういうタイプじゃないのになぁ」

「サクやんは、わたしと同じ世話焼きだよ」

「そうやんなぁ、それが不思議やねん」

 でも、なんだかんだでわたしにもサクやんにもだらしないところがあるので、お互いに世話を焼くような感じでうまく合っているような気がする。いまでもそんな感じだし。

「ののちゃん、次もあるんやなかったっけ?」

「あ、そうやった!」

 ののちゃんが慌てた手つきでケータイの時刻を確認する。

「じゃあ、また明日ね」

「うん、ばいばい」

 ののちゃんと別れると、わたしはとうとう一人になった。

 

 外は日差しが強くて、蝉が鳴いていた。暑かったけれど、なんだかこれでちょうどいいような気もした。

 わたしが「もうあんまり眠くないなぁ」と気づいたのは、駅に向かうバスの中でのことだった。やっぱり五限行けばよかったなぁ。そう思うと、ののちゃんに会いたくなった。ののちゃんに会いたくなる時の気持ちは、やっぱりどこか榊くんに会いたくなる時の気持ちに似ていた。運命線が、くすぐったい。

 

 家に帰って郵便受けを確認してみると、ハガキが一枚入っていた。裏が写真になっている、いわゆるポストカードだった。

 写真はモノクロで、丘のような場所から街を写している。風景写真のようだったけれど、よく見てみると真ん中の少し下には柵に手をかけている一人の男の人が写っていた。そのモノクロ写真を見ただけで、わたしは裏返して表を見なくても、これが誰から送られてきたものなのかは一瞬でわかった。

 いちおうハガキの表を確認してみたけれど、そこに書かれていたのはわたしの名前と住所だけで、差出人のことはなにも書かれていない。どうやらこの差出人も「写真を見たら誰かわかるだろ」と思っているらしい。こういうことをするのは、いかにも榊くんらしい。実際にわかってしまったのだから、いいのだけれど。

 榊くんからのものだとわかって、しばらくして、わたしの鼓動は急に激しくなった。いつのまにか、わたしの色も赤色に染まっている。緑以外の色になったのは、本当にひさしぶりのことだった。

 一度その写真を胸にぎゅっと押し付けてから、ドアを開ける。部屋に入ってクーラーをつける。ポストカードをテーブルの上に置いて、冷蔵庫からお茶を出して、透明のグラスに注いで一気に飲み干す。それでもまだ、わたしの色は赤い。

 けれど、動悸はだいぶ収まってきた。わたしは深く息を吸ってから、テーブルの上のポストカードを手に取って、もう一度榊くんのその写真をよく見てみた。榊くんはモノクロ写真を撮るのが好きだった。撮るのはいつもビルだとか橋だとか、都会の人工物ばかりで、写真サークルの展示に出す作品も毎回そういった写真だった。

 わたしは正直、榊くんの写真が苦手だった。だって、ビルだとか橋だとかは、その場所に行けばいつでも見られるじゃない。そりゃ、百年後だとか二百年後にはなくなってしまってるかもしれないけれど、一瞬しか撮ることができないようなものでは決してない。

 写真サークルの部室で一度、榊くんがサクやんとこんな会話をしていたのを覚えている。

「榊ってさ、人は撮らないの?」

「どうして?」

「どうしてって、お前が撮るのはいつも建築写真というか、そういう人工物がメインの写真ばっかだろ。おれは結構好きだけどさ、なんか他の写真撮ってもいいんじゃねえかなって」

「うーん、なんかビルとか建物の写真ってさ、時間が止まってるって感じがして好きなんだよね。モノクロだと、なおさら止まった感あるでしょ?」

「まあ、わからなくはないけど」

「人とか動物の写真だと、やっぱりどうしても動き出しそうな気がするというか。まあ、普通はそういう動きがある写真ほど評価されるんだけど。好みの問題だけどさ、僕はたぶん人とかを撮るのには向いてないと思う」

 その話を聞いてから、わたしは安神くんの写真が良さが少しだけわかった気がする。そして、榊くんが人を撮らないのはきっと、人の時間は止められないからなんだなとも思った。

 けれど、今回送られてきた榊くんの写真は、いままでの写真とはどこか違う気がする。高いところから見下ろした街は、たしかに人が住んでいる街のはずなのに、どこか遠かった。

 この写真の時間は、止まっているのだろうか。

 真ん中に写っている後ろ姿の男の人は、きっと榊くんだ。少し髪が伸びてるけれど、肩とか背中の感じでなんとなくわかる。

 この写真はどうやって撮ったのだろう。三脚でも使ったのかな。それとも誰かに取ってもらったのだろうか。そもそも榊くんはいま、一人でいるのだろうか。誰かと一緒なのかな。

 この写真はどこで撮ったんだろう。東京かな。東京にもこんな街が見下ろせる丘があるんだろうか。東京はビルの街のイメージしかない。人がたくさんいるから、ビルがたくさんないと満員電車みたいにぎゅうぎゅう詰めになって、動けなくなるんだと思う。

 

 榊くんは、なんとなくだけれど、いまも東京にいる気がしていた。わたしがそう思うのはきっと、前回送られてきた写真のせいだ。榊くんから写真が送られてきたのは、今回が初めてのことじゃない。前にも一度だけ、送られてきたことがある。前回の写真はポストカードじゃなくて、メールで携帯に送られてきた。ちょうどいまから一ヶ月ほど前のことだ。

 メールが届いたのはわたしだけじゃなくて、どうやら親しかった人には全員送ったらしい。ののちゃんにもサクやんにも届いていた。なぜか写真は全員違っていたけれど、どれも東京だってわかるような場所や建物を写していた。わたしに届いたのは、モノクロの東京タワー。もちろん、今回のポストカードのように、文字でのメッセージや言葉はなにもなく、ただ写真が一枚添付されていただけだった。

 わたしはすぐに返信を送ったけれど、メールは返ってこなかった。読んでくれたのかもわからない。本当に、榊くんのやり方はずるいな。写真じゃなくて、言葉が欲しいのに。

 榊くんの写真の良さだって、あのときの部室での会話を聞かなかったら、きっと気付けないままだった。

 写真だけじゃ、わたしは答えに辿りつけない。

 写真だけじゃ、榊くんの色はわたしには見えないから。

 その時になってようやく、わたしはののちゃんが昨夜「東京に行こう」と言った言葉の意味が、わかった気がした。

 

「初倉さん、どうしたの? 今日はぼっーとして」

 榊くんの声に、わたしはぱっと顔を上げた。

 目が合うと、榊くんは楽しそうに笑った。いつもの榊くんだった。別にわたしはぼっーとしていたわけじゃない。たしかに、二時間ほど前に薬を飲んだのだけれど、眠さのピークはとっくに過ぎた。

 その日は、榊くんの色がおかしかったのだ。だからわたしは注意深く、彼の色を見つめ続けていた。そのときの榊くんの色を、うまく言葉で表すことはできない。そもそもそれは、色じゃなかったのかもしれない。強いて言えば、それは不透明。色を失ったわけでない。けれど、何色にでも染まってしまいそうな、そんな不安定で、儚い、不透明。

「ぼっーとしてるように見えた?」

「うん、見えた。さいきん多いね」

「そんなこと、ないと思うけど」

「なにかあったの?」

「別に、なんもないで」

 わたしは、嘘を吐いた。

 実は三日前にサクやんと別れた。まだそのことは誰にも話していない。もちろん榊くんにも。

 でも、サクやんと別れたことで、特になにかを悩んでたわけではない。それは本当だ。別れたと言っても、わたしたちは恋人同士をやめただけで、たぶん周りからはなんにも変わってないように見えるはずだ。実際、なんにも変わってないのだ。だから、そのことはいまは関係ない。

「榊くんの方こそ、なんかあったん?」

「へ? いや、なにもないよ」

「疲れ溜まってたりしてない?」

「さいきんバイト辞めたし、むしろいまは暇かな。どうしてそんなこと聞くの?」

「いや、なんかいつもと雰囲気違う気がしたから……」

 さすがに、いつもと色が違うとは言えない。

 人の色が見えてしまうことを、わたしは誰にも言っていない。話してみたら案外、信じてくれるのかもしれないけれど、それ以上にわたしは怖かった。それはきっと小さい頃の記憶のせいだ。色の話をすれば、変な目で見られる。嫌われる。ひとりぼっちになる。

「初倉さんって意外と勘鋭いよね。ぼっーとしてるように見えて、結構人のこと見てるというか」

「だから、ぼっーとしてないってば」

 わたしが少し不満そうに言うと、榊くんはまた楽しそうに笑った。だから、やっぱりいつもの榊くんなのかなって、そう思ってしまった。

 わたしの勘は、全然鋭くなんてなかったのだ。ただ色が見えるだけ。どうして榊くんの色が不透明になったかなんて、深く考えようとしなかったんだ。

 榊くんがいなくなってしまったのは、その翌日のことだった。

 

 榊くんがどこかに行ってしまったと最初に知った時、もしかしたら榊くんはもう帰ってこないんじゃないかって、そんな気がした。彼の最後の色を見ていたから、わたしは余計にそう思ってしまったのかもしれない。それは同時に、異変に気づいておきながら、なにもすることができなかった自分への重荷にもなった。わたしがなにか言ったところで、あの時すでに榊くんは決めていたのだろうし、いまさら悔やんだって無駄なことなのかもしれない。それでも、ののちゃんの寂しそうな表情と、薄い青色を見ると、胸がきゅっと、抉られるように苦しくなった。

 でも、いまは違う。

 モノクロの東京タワーの写真を見た時、榊くんはきっといつか帰ってくるって、そう思えることができた。

 榊くんは東京にいる。

 たったそれだけのことで、わたしはひどく安心してしまった。その時だけはなぜか、東京がこの世界で一番近い場所のように思えたのだ。

 実際、東京なんて近い。新幹線に乗れば二時間半だ。榊くんは、どこか知らない遠い場所に行ってしまったわけじゃないのだ。

 この街が夜なら、東京も夜。

 この街の月が満月なら、東京の月も満月。

 ほら、やっぱり東京なんて近いじゃない。

 

「この写真、いいな」

 わたしは、榊くんにはじめて写真を褒められた時のことを思い出していた。その時はたしか、わたしがはじめて展示スペースに写真を出した時のことで、展示会のテーマは「道」だった。

 榊くんはわたしが撮った写真の一枚を、夢中になって見つめ続けた。榊くんがずっと見ている写真は、女の子が歩道橋から道路を見下ろす姿を、横から撮った写真で、作品名は「歩道橋」。なんの捻りもない構図とタイトル。

 見下ろしているのは、ののちゃんだ。その時はまだ二人は付き合い始めてなかったけれど、榊くんはもしかしたらののちゃんのことがずっと好きだったのかもしれない。だから、わたしの写真を褒めてくれたのかな。それとも、わたしの写真に写っているののちゃんを見て、榊くんはののちゃんを好きになったのかな。もしそうだったら、悔しいけれど、素敵だな。

「榊くんだけだよ。そんなにわたしの写真べた褒めする人」

「いや、本気ですごくいいと思うよ。好きだなぁ、初倉さんの写真」

「わたしは……榊くんの写真苦手」

「あはは、ひどいなぁ。まあ、撮ってるもの自体全然違うもんね。初倉さんの写真はなんというか、色がきれいなんだよ、とっても」

 色と言われて、わたしは一瞬だけびっくりする。

 色がきれいだなんて、そんなこと、はじめて言われた。

「じゃあ、榊くんもモノクロやめたらいいのに」

「よく言われるよ。たしかにモノクロじゃ、こういう雰囲気は出せないからなぁ」

 その時の榊くんは、薄い青色だった。

 

 わたしは机の引き出しから「歩道橋」を取り出してみた。

 机の引き出しは、いままでに撮ってきた写真の保管庫になっている。本当はアルバムなんかに入れてちゃんと整理するべきなんだろうけれど、面倒くさがりのわたしは適当に輪ゴムで束ねているだけで、ずっとバラバラのままにしてしまっている。

 写真を撮ってから一年以上経っているせいか、あまり自分が撮った写真という感じがしない。ありきたりと言えば、ありきたりな写真だけれど、ののちゃんはどの角度から撮っても女の子っぽく整って写ってくれるから、そこだけいい写真になる。軽く手をついて、少し身を乗り出しているように見える姿も可愛い。

 人に見せるために写真を撮るようになったのは大学に入ってからのことだけれど、昔から写真を撮ることは好きだった。きっかけは単純。写真には、人の色がないからだった。わたしが人の色を見ることができるのは、肉眼で直接見た時だけなのだ。テレビに映る芸能人の色も、わたしには見えない。写真に写った人の色も、わたしには見えない。わたしは写真を通すことで、やっと普通の人と同じ色のない世界が見える。それが嬉しくて、写真が好きになった。

 そのせいか、わたしが撮る写真はいまでも、日常を切り取ったような、なんでもないものばかりだ。そういう写真って、結構見る人によって好き嫌いが分かれる。温かい感じがするねって言ってくれる人もいれば、なにが魅力なのかわからないって言う人もいる。わたしにとってはただ、写真を通して人を見られるだけで満足なのだけれど。

 それでも、わたしの写真をあれだけ褒めてくれたのは、いまだに榊くんだけだ。自分が撮ったものを「好き」と言ってもらえるのは、やっぱり嬉しい。わたしには写真の芸術性だとか難しいことはよくわからない。ただ、誰かが「好き」と言ってくれるだけで、撮り続ける理由にはなるとは思う。

 そんなふうにして「歩道橋」を眺めていると、不意に携帯が鳴った。ローリング・ストーンズの「ペイントイットブラック」は知り合い以外からのメールの着信音だ。確認すると案の定、知らないアドレス。

 

Title ひさしぶり

 ひさしぶり、初倉さん

 写真はちゃんと届いたかな?

今回はちゃんと印刷した写真を見て欲しくて、ポストカードで送りました

 デジタルのままだとやっぱり、しっくり来ないもんね

 

 さいきんは建物以外も撮るようになりました

 まだ上手く人を撮ることはできないけど

 いつか初倉さんみたいな写真が撮れるようになりたいな

 そう思っています

 

 どうしても聞きたいことがあって

 迷ったけど、メールを送ることにしました

 

 教えてください

 あの日、最後の部室で会った時

どうして初倉さんは気づいたんですか?

ずっと疑問でした

 正直誰にもバレない自信があったから

 

 返信待ってます

 

 あと、僕が言えたことじゃないとはわかってるんだけど

 初倉さんはサクヤとずっと一緒にいるべきだと思う

 長いメールでごめんね

 

 

 メールは、そこで終わっていた。

 信じられないことに、それは榊くんからのメールだった。写真は添付されてない、文字だけのメール。ひさしぶりのせいか、少し丁寧過ぎる言葉遣いのメール。わたしは一度だけそのメールを読むと、携帯を閉じて、そのままベッドの上に飛び込んだ。うつ伏せになって、ぎゅっと枕を抱きしめる。少しだけ、シャンプーの匂いがした。

 メールが来たことは、もちろん嬉しかった。二ヶ月ぶりの榊くんの言葉だ。けれど、そこにわたしが欲しかった言葉があったわけではなかった。むしろ返事に困るような、そんな言葉ばかり。

「僕が言えたことじゃないとはわかってるんだけど」

  ――まったくだよ。

「初倉さんはサクヤとずっと一緒にいるべきだと思う」

  ――余計な、お世話だよ。

 枕を抱きしめたまま、体を回転させて仰向けになる。わたしとサクやんが別れたことを、いったいどこで知ったのだろう。わたしはいまの榊くんのこと、なにひとつとしてわからないのに。やっぱりずるいな。

 カーテンを開けていた窓からは、空が見えた。

 いつのまにか、空は一面、雲で覆われている。いまは夕方のはずなのに、太陽がどこにあるのかわからないほどに曇っていた。

 しばらく考えてから、もう一度携帯を開くと、カメラを起動してその曇り空を撮った。寝転がったまま何枚か撮ってみたけれど、どれも大して変わらなかった。わたしは二枚目に撮った写真を選ぶと、それをメールに添付して、榊くんに送信する。いままでの、お返しだ。本文にはなにも書かずに、タイトルに「あなたの色」とだけ書いた。相変わらず、なんの捻りもないタイトル。

 榊くんはきっと、「なんだこれ」って思うだろう。

 それでも、笑ってくれるかもしれない。

 そうだったら、いいな。

 窓の向こうの不透明雲は、いまにも雨を降らしそうだった。しばらくして、再び「ペイントイットブラック」が部屋に響く。

 

 

Title Re:あなたの色

  いまはもう、晴れた空の色をしているよ