ウサギ
目の前をウサギが通り過ぎた。
アリスはウサギを追いかけた。
ウサギは嬉しそうにこちらを振り向いた。
アリスは知らなかった。
ここにはもう不思議な世界なんて無いことに。
鏡に映る自分はもういないことに。
セーラー服。
少女が鏡を見る度に思い浮かぶ単語と言ったらこれしかない。
幸い、時代錯誤とも言えるこの制服を少女は嫌いだと思ったことは一度も無い。
白い布地、青いライン、紺のリボン。
どれも控えめな色が全てが合わさることで清潔さを感じさせられる。
「よし」
今日もきれいにリボンが結べた。
少女は自分に気合を入れて家を出た。
学校からそう遠くない少女の通学手段は徒歩だ。自転車の方が速いのは分かっているが、あまり好きじゃない。
街に出れば自分と同じ格好をした少女が溢れている。
見慣れた黒い学生服の少年たちもいる。
不定期に立っている交差点の警察官たち。
どれも少女の日常を作る光景。
どれも少女の平凡を示す光景。
でも、それでいい。それがいい。
少女はいつもの風景を楽しむことも無く歩道橋を上った。
人の頭よりはるかに上の所からの景色は余計日常を感じさせる。
他人と距離を置いて俯瞰できるこの場所が少女は好きだ。
少女はいつものように車の行き交う景色を見ようと下を煽った。
ふと、交差点のど真ん中の大きな水たまりに何かが映る。
白くて、ふわふわの、何か。
だが、橋の上の柵に身を乗り出して下を覗きこんでも何も見えない。
もう一度水たまりを見てもそんなものは映っていない。
気のせいか。
少女は先日の視力検査の結果を思い出しながら日常に戻った。
聞き流すだけの授業を6回繰り返し、形だけの掃除を終わらせた少女はやっと学校から解放された喜びをかみしめながら昇降口を出た。
子供さまは神様です。
唐突に最近の学校のPTA至上主義を風刺する芸人の一発芸を思い出したらくふふ、と笑いが零れていた。モンスターペアレントが人間の権利を主張するなんて厚顔無恥もいいところだ。
少女は全てに対して純粋で、無垢だ。
今日の掃除中、少し開いてしまっていた校長室のドアの隙間から、好き放題に怒鳴り散らす中年女性に深々と頭を下げる禿げ頭の校長を偶然見かけてしまった少女は思いっきり笑ってしまった。
ケラケラと。
おい校長、芯を通して生きるのを説いていたのはどこのどいつだよ。
なるほど、モンスターに頭を下げると芯が通るのか! シャーペンの4Bの方が固いぞ! その禿げ頭に刺してやろうか!
ケラケラと笑い続けた少女は心の中でそんな事を思っていた。
勿論、口には出していない。人間どんなことを言われたら傷つくのかなんて道徳の授業でじっくり習ったんだから。
道徳の教科書に従って、自分が言われたら嫌なことは言わないようにしたのにケラケラ笑う少女を見つけた教員は褒めてはくれなかった。
――おい、お前何笑っているんだ
心なしか、中年女性の叫び声の高さが高くなったような気がする。
キンキンキンキンと少女の耳を貫く叫び、威圧するように低く強く咎める教員の声が見事な不協和音で少女の頭の中に響いた。
あー気持ち悪。
絶対音感が身についていた少女はそんな最低なハーモニーに気分を害してしまった。気持ちが悪くなったら保健室。
歩き出そうとした少女を掴んだ手はそのまま校長室に引きずりこむ。
――保護者の方の気分を害したんだ、謝れ
私も気分が害したのでお互いの痛み分けということで、なんて提案は勿論できなく、少女は力なく頭を下げた。それに追随して教員はもっと深く頭を下げた。
モンスターが満足そうに喉を鳴らす。
あーあ。
せっかく開放的な気分だったのに嫌なことを思い出してしまった少女はすっかり気分を害してしまった。これは一体誰が頭を下げてくれるのだろうか。
気晴らしにいつもと違う道を選んで帰途につく少女の周りには誰もいない。
同じ格好をした少女も、見慣れた黒い学生服の少年も、不定期に立っている交差点の警察官たちも。
でも、それでいい、それがいい。
これが少女の帰り道の日常だから気にしない。
少女の周りに誰もいないのが日常だから気にしない。
―――――
まただった。
何気なく見たカーブミラーに何かが映る。
白くて、ふわふわの、何か。
今度は絶対に逃さない。
瞬時に後ろを振り返った少女はついにそれの姿を見つけられた。
それ、は走っている。必死に、さびれた道を走っている。
絶対に逃さない。
少女は瞬き一つせずそれを見つめた。
どこに向かって走っているのかよく分かる。
少女もそれが行く先に向かって思いっきり走った。
少女は思いっきり走った。
心臓がドキドキを通り越して暴力のように胸を殴りつける。
一度止まれば二度と動けない。
そんなことを思わせるくらいに激しく、夢中に走り続けた。
あのウサギはどこにいる。
こんなに探しているのに、見つからない。
少女は自分がどこを走っているのか分からなかった。見慣れない地下の景色は日常からかけ離れている。もう戻り方なんて分からない。
でも、それでいい。それがいい。
あれはモンスターか、人間か。
何一つ分からないウサギらしきそれに、不思議と恐怖心はない。
どうしてだか、少女はこうしてウサギを追いかけることに既視感を感じていたからだ。
唐突に辿りついた行き止まりに、少女はそこがゴールだと悟る。
「はじめまして、カマってちゃん」
鏡に映るウサギがこちらを見ていた。
ウサギはもう、アリスに戻ることはできない。
了