梅雨明けインデラル

 

「千春、はじまるんだよ」

 窓辺で空を見つめていたレーヌが、ふいに振り向いてそう言った。彼女の無造作に伸ばされた髪がやわらかく波打ち、一瞬目を奪われる。茶色もほとんど混じらない彼女の金髪は、私の黒髪とは対照的で輝かしい。

「ん? 何が始まるの?」

 髪だけではない。目はターコイズのように明るく煌めく青、肌は透けそうなほどの白。どこをとっても、彼女は私より綺麗な色をしている。

「えーっと…saison des pluies」

「んーとね、日本語ではね、梅雨って言うんだよ」

「ふーん、つゆかぁ。つゆつゆ…」

 そこまで興味も無さ気に、レーヌは目線を窓の外へ戻す。 

「わたし、つゆって嫌い」

 目線を窓の外に向けたまま、レーヌはぽつりと呟いた。

「どうして? 髪が広がっちゃうから?」

 たっぷりとした金髪を一瞥して尋ねる。違うか。湿気の多い日でも彼女の髪はまとまっている。指で梳けば、いつだって絹糸のようにサラサラとこぼれていくのだ。

「ううん、雨だと…外にいけないから」

「そんなの、傘を差せばいいだけのことでしょ?」

 もしかして億劫というのが分からないのかもしれない。調べてあげようと和仏辞書に手を伸ばし、私はそこで目を覚ました。

 

 現実は五月下旬で、既に梅雨のまっただ中だった。毎日のように傘を持ち歩いていて、今月だけでもう二本無くした。電車でうとうとするのがよくないのだと思う。以前は目を瞑って軽く目と頭を休ませるだけの時間だったのに、通勤時も帰宅時も本格的に夢を見始まっている。乗り過ごすところまでいってないのが奇跡みたいなものだ。

 やがて電車は駅に着き、心地良く痺れた寝起きの身体を奮い立たせる。プラットホームを離れ、定期を触れて改札を出ると小雨が降っていた。そこで千春は自分が傘を持っていないことに気が付いた。家を出るとき確かに持ってきた傘がない。

 今月三本目となる傘の紛失だった。

 

 思い出せない。電車から降りる際に手に取るのを忘れたのか、駅のベンチに置いていたのか、それともどこか違うところ、例えば家を出てすぐに乗ったエレベーターの片隅に立てかけたままだったのか。

 

 

「千春ちゃん、これ!」

 声をかけられて後ろを振り向く。そこには、見慣れた顔があった。

「結衣……」

「これ、電車の中に忘れていったでしょ、もう……。ぼんやりして、どうしたの?」

 同じクラスの結衣だ。席が近いからといって、最近よく話しかけられるが、こんなところで会うとは思わなかった。彼女の手には、私の水色の傘が握られていた。

「ありがとう」

「いいえ。それより、千春ちゃんもこの電車だったんだね、知らなかった」

「私もだよ」

 話したまま、学校に向かって歩き始める。

「千春ちゃん、どこに住んでるの?」

「桜」

「え!? 私も桜だよー」

 小中が違ったと思ったが。そうか。確か、引っ越してきたばかりだと言っていた。意外な事実だ。

 その後も、特に目立った話はしないで、学校へ着いた。

 

 

 学校で結衣が私に小さく、可愛らしく折られた手紙を渡してきた。放課後、一緒にお茶でもしない、という学生にとっては大きなお誘い。隣の席だから目配せして了解の合図を送る。結衣はにこっと笑った。クラスの友達とお茶。少し心が弾む。

 退屈で、眠くなり始めたのに目が一気に覚めた。先生の声もよく聞こえる。

 

「ただいまー。」

「おかえり。遅かったね。」

レーヌが出迎えてくれた。おみやげあるよ、と言ったら彼女はわあい、と笑顔を見せる。

 

 

「レーヌは外が好きなんだっけ?」

 袋のクッキーを差し出しながら首を傾げる。一枚細い指がつまんで、首が縦に振られる。

「へえ、じゃあどこかに遊びに行きたいね。そうだ、お茶しに行くとかどう?」

「今、一緒にお菓子を食べているのはちがうの?」

 白地に金の装飾があるカップ。少し持ち上げてレーヌは私に示すので、小さく苦笑した。言葉は難しいな、と呟くと、疑問いっぱいです、と顔中で訴えてくる。

「喫茶店にでも行こうか、って意味だよ。こんな適当な紅茶とかじゃなくてね」

「それでも美味しいよ?」

 レーヌは優しい。

「千春のくれるものはみんな好き」

 レーヌは朗らか。

「だから、千春をここに引き留めているのは、ほんの少し嫌なの」

 レーヌは――

 レーヌ?

 目の前に寂しそうな笑みが浮かんでいる。何かをこらえたように唇が引き結ばれている。だめだ、何かが違う。どこかで間違えた。でなきゃ、でなきゃこんな顔をレーヌにさせることなんて、なかったのに。

「千春と一緒にいるの、好き。たのしい。いろいろなこと教えてくれるし、つゆ、だっけ? それも千春が教えてくれたよね」

 私はぼうっとした頭でひとつうなずく。

「だけど、梅雨の雨と一緒に行こうと思うの」

 レーヌはそれこそ雨に洗い流されかけたような、わずかな笑みを残して、泣きかけていた。どれもこれも夢だからね、というささやきが聞こえたような気がした。

「ひとりぼっちじゃないし、寂しくないし。千春は、心配しないでね」

 雨の音が急に近づく。

 

 ふと目が覚めた。

 教室。授業とともに雨音が流れている。眠くなかったはずなのに、頬杖をついていたせいだろうか。

 何かがすっぽり抜け落ちたような感覚が、ぽたりと滴に変わって、机に落ちた。