一目

 帯刀なんて時代遅れだろう。

 時代は変わろうってときなんだ。維新、いい響きじゃないか。

「あいつは武士の気概というものがわからんのだ……。刀は武士の誇り。捨てるなど以ての外だというのに、全く」

 長屋から出てきた男は腹立たしげに首を振ると、厚く曇った空を見上げた。

 着物をしっとりと濡らすような雨だ。風情と言えば聞こえがいいが、湿った衣が肌にまとわりつくこの感覚だけはどうにも好きになれない、というのが男の偽りなき感想であった。

 新時代の到来とやらに傾倒する友人からのぼせたような文句ばかり聞かされた男はすっかり参っていた。その憂鬱に追い打つかのごとく降り注ぐ雨で気勢は削がれ、もはや帰路を辿るのでさえ億劫になる。

 しかし、こんな道ばたで立ち止まっていては蒸された気にあてられるだけで、不快感も募ろうというものだ。男は傘を広げると、疲れ切った足取りで一歩雨の中に踏み出した。

 あんな言葉の後では腰に差した刀がやけに頼りなげに見える。家の誇り、ひいては自らの誇りとも呼べる刀だというのにそう思えてしまうのは、つまるところ男自身もその言葉に納得、あるいは首肯せざるを得ないと内心で考えていることの表れであった。

 細道を抜けながら、そうっと刀を撫でる。肌身離さず身につけているとはいえ、前に鞘から抜いたのは一体いつであったか。お飾りと言われたところで何一つ否定などできない。武士という特権階級を示す名札程度の意義しかないというのか。そこまで貶めたくはない、と苦々しく唇を噛み締めた。

 そのときだ。

 ぼうっと考え事に耽っていたせいで、角から現れた影に全くと言っていいほど注意が向かなかった。傘の紙が触れ合ったかというささやかな感触で途端に現実に引き戻された男は、驚いて顔も見ず飛び退いた。その勢いで、長屋の壁に体をぶつけてしまう。きまりの悪いことこの上ない。

 相手は若い娘だった。できるだけこちらの気に障らないように、露がかからないようにと計らってくれたのが、傾げられたままの傘から見て取れた。固まった娘はこちらを見ておびえたような顔をした。

 刀に手をやっていたのが災いして、抜くかと勘違いさせたのだろう。男は咳払いして「す、すまぬ」と一言詫び、足早にその脇を通り抜けた。

「あっ、あの……」

 背後からか弱い声が追ってくる。振り向かずにそのまま歩を進めて、それからゆっくりと振り向いた。

 娘ももう歩き始めていた。後ろ姿はすらりと背を伸ばし、しゃなりと評するに相応しい一挙手一投足。傘がちらちらとその結い上げられた髪と、美しいうなじを覗かせる。もう少しよく顔を見ておけばよかった、と男は重たい息を吐いた。

 傘を持ち上げて雨空を見やった。まるで男の心を映し出しているように思えた。