ある雨の日に、下手人

 

 雨の日は、嫌いだ、と藤原は言った。

 春の突然の雨の中、藤原と泉は帝国大学の校内を傘もなしに歩いていた。二人とも、傘を持ち合わせていなかったというのが災いしたのだ。金ボタンが雨に濡れてつやつやと光っていた。

「藤原、おまえ、晴れの日も、晴れの日は嫌いだ、って言ってなかったか。」

 泉は体育の授業の時に汗を拭くのに使った、最初から湿った手ぬぐいを頭に掛けていた。俺は泉のように外で調査するんじゃなくて部屋の中で陰鬱にも化学式をいじっているからな、と藤原は伸びた髪の毛を払いのけた。

「まあ、何というか、日に当たると疲れるし。そうだ、泉君よ。」

 ふざけた声を出して藤原は、泉の方に顔を向けずに、話しかける。桐の下駄がぱしゃんと水たまりを踏みつけた。

「いっそこんな湿った空気なんだ、花街にでも行ってみるか。おもしろそうだ。」

 自分の提案に藤原はけらけらと笑った。泉は呆れた。何がおもしろいんだよ、と困った顔になる。藤原は道端に放り出されていたぼろ傘を引っ張り出し、持ちたまえ、君のほうが上背があるだろう、と泉に差し出す。ずぶぬれだから傘など差さなくてもあまり変わらないのだけれど。

「いやあ、男と相合傘とは、僕も落ちぶれたもんだ。はっはっ、どうせならこんな野郎じゃなくて美人と傘に入りたいよ。」

 時折、藤原はまわりの人を驚かせる言動をする。それがたぶん彼の言う『部屋の中で陰鬱にも化学式をいじっている』の反動なのだろう、と皆言っていた。

 

 

 きっとあまりに微妙な表情で藤原を凝視してしまったせいだろう、彼は黒い瞳でこちらを見つめ返してくると、拍子抜けしたように途端に感情を落とした。花街か、と泉はやや強引に楽しげな振りをして繰り返したが、無理するなよ、と藤原が突き返す。

「ひたすらにどこかを歩く、ってのはどうだい」

「おまえ、雨だって話をしてたんじゃないか。ったく、散歩好きはこれだから」

「だったら喫茶にでも?」

「女学生でもなしに、そんなところが似合うかよ。泉とは本当に気が合わないな」

 くすりと藤原が笑みを漏らす。よくよく考えてみれば確かに不思議なことで、泉と藤原はなかなかに意見も、趣味も合わない二人だったのだが、それを意識するのがたまになるほどにはそばにいるのが当たり前の二人だった。

 泉は傘を持ち上げてちらと空を見やる。そのそばから上着がしっとりと湿りだして、傾けた傘を戻す寸前に雨粒が目に飛び込んだ。

「っ! やあ、雨がひどいなあ!」

「おとなしく帰ってもいいんだぞ。まあ、ちっと退屈かとも思うけど」

「そうだな、出来ればどこかに行きたいな」

 どこかに、どこかにねえ、と言い合ううちに、大学の門まで来てしまった。

 

「やっぱりだ。全く、意見はまとまらないしこれだから雨の日は。」

 関係ないだろ、と泉がつっこもうと思ったところで、ふと、鈴の音のように澄んだ微かな声がした。

「もしもし、さかざき呉服を御存じありませんか。」

「お・・・」

 藤原の言いかけた先を制して、泉があわてて口を開いた。―――どうせ藤原の事だから「お、なかなか可愛い娘じゃないか」などと軟派文句をいうに決まってる、と思ってのことだ。

「さかざき呉服、は・・・呉服の店か。藤原、おまえ知ってるか?」

「いいや。そもそも婦人物の呉服店がこの近辺にあるのか?」

 二人がうなっていると、その若い娘が口を開いた。

「二丁目の、花咲小路とあるのですが・・・。」

 

 

 その地名を、藤原は聞き覚えがあった。確か由緒ある老舗と時代を先駆ける店が入り交じる商店街が有名で、利用者も多いと聞いていた。確かにそこなら婦人服を扱っている店もあるかもしれないと、藤原は思った。

「花咲小路、か。名前だけは聞いたことあるな。しかしここからはかなりの距離が・・・」

「ほう、お前、知ってるのか」

 素直に感心したように、泉が藤原を見つめる。

「お前こそ、名前くらいは聞いたことあるだろう?」

「いや、初耳だ」

「・・・えっと・・・」

 二人だけのやりとりに娘は困ったような微妙な表情をを浮かべた。

「あぁ、すまん。それで、そこにあるさかさぎ呉服ってところか」

「しかし距離がある。・・・お嬢さん、今夜はもうお止めになって僕の家に・・・」

「おい藤原!お前もいい加減に・・・」

「それは、できません」

 浮かれる藤原と慌てる泉は、冷や水を浴びせるように言い放たれたその言葉に、一瞬耳を疑った。それは、最初にかけられた声と同一のものとは思えない、力強く、はっきりとした声だったからだ。

「うえぇ・・・振られたか・・・」

 背後で落ち込む藤原を尻目に、泉は少女から漂うただならぬ雰囲気を感じ取った。

 娘の目には炎が揺らめくような強い意志が宿り、佇まいもこの雨にかき消されることはないだろうと言った出で立ちだ。

「お嬢さん、詮索するようで悪いですが・・・何か、事情でも?」

 泉の慎重に、かつ大胆に踏み込むような質問に、娘はきゅっときつく唇を結ぶ。

 降りしきる雨が、3人に囲まれた石畳の上で乱反射を繰り返す。

 少しの沈黙の後、娘は何かを逡巡するように口をぱくぱくと小さく動かしていた。

 それほどまでに重要な事情なのか、と泉は探る。藤原曰く、ここから相当距離のある場所へと一人の足で向かおうとしているくらいなのだから、何か重大な用事があるに違いない。

 最後に再び唇を強く閉ざした後、娘はきっぱりと言葉を発した。

「・・・あなた方には関係ありません。ご迷惑をお掛けしました」

 娘は軽くお辞儀をし、まっすぐ前を向いたまま泉と藤原の横を通り過ぎていった。

 なおも悔しそうにする藤原を憐れむような目で見下した後、泉は振り返って娘の後ろ姿を見つめる。

 激しさを増した雨の中に消えていく娘の背中に、泉は大きな業のような物を視た。

 

 後日。からっとした晴天の下、いつの日かと同じように泉と藤原は肩を並べて大学の校内を歩いている。

「晴れの日は、嫌いだ」

 藤原が小さく呟いた。そういえば同じ事をついこの間も聞いたな、と泉は記憶を掘り返す。

「お前はもう外に出ない方がいいんじゃないか・・・」

「何言ってるんだ、可愛いお嬢さんと遊べなくなるだろうに」

 全く、と泉は肩をすくませる。いつも通りのやりとりだった。

 不毛なやりとりをしながら校内を抜けて、校門に至った二人。そこで珍しく配られていたM新聞の号外を受け取って、戦慄した。

 

 ――さかさぎ呉服店にて、殺人あり。

 

 泉の中で、雨の中に沈んでいくあの小さな背中の像が、降っているはずのない雨音に掻き消されていった。