花明かり
祭りのお囃子の音が、普段は墨のように濃い夜の闇を、奇妙にぼんやりと照らし出していた。
砂砂利の道を行く人は皆が皆、薄い面を付けている。それは般若だったり、狐面だったり、小面だったり、・・・まるで物化けが人に化け出でたかのような、ちょっと空恐ろしくもある祭り風景だった。
「花・・・・・花!」
花は、お下がりの女面を着けて、ぶらぶらとひとり歩いていたが、ふいに背後から呼び止められた。
「花!きこえないのかい!」
「ん?・・・ああ、お小夜ばあさん。」
「まったく。そんな調子で人混みを歩いてるとすりに遭うよ。」
「財布はしっかり着物の内側に入れてあるよ。なにかよう?」
「ああ。さっき梅ちゃんを大桜の木の前で見かけたからね。おまえさんのこと探していたみたいだから、知らせに来ようと思って。
ひさしぶりなんだろう?」
うん、花はうなずく。梅ちゃん、と呼ぶ子は幼なじみだったが、家の都合のため、二年ほど前に違う場所へと引っ越しをしていったのだ。しかし、この祭りの時だけは家族そろってこちらへと戻ってくるのだ。
ありがとう、花は駆ける。大桜はこのあたりで一番樹齢がある。それが年一度の祭りの頃に大きな手を振って花を咲かせるのはとても見事な光景だ。
お囃子の音が近くなって離れた。祭りの御輿を追い抜いたのだろう。最後に大桜の前で神様をおろし、そこで三日間滞在してもらう。みんなが面を着けているのは外にいるとき、神様に顔をあかすと気に入られて連れて行かれてしまう、という伝承があるからだ。
「梅ちゃん!」
狭い視界の中で梅を見つけ、手を振る。梅の方も花ちゃん、久しぶり、と答えた。
「花ちゃん、久しぶり。会いたかったよー。」
手を取ってぴょんぴょんと跳ねる。梅の短くおかっぱに切りそろえられた髪の毛がふわりふわりと揺れた。
「お面付けないの?」
祭りの間は基本家の中でしか面ははずさない。しかし梅の顔には何の面もついていない。梅は一瞬困ったような顔をしたが
「うん。神様まだきてないから、いいかなって。だめかな?」
「大丈夫だよ。きっと。」
花もそれに習って女面をはずす。面の薄く笑った顔が消えた。
梅は久しく見ていなかった花の顔をしげしげと見ると、頬を引っ張ったり鼻をつまんだりしてけらけらと笑った。やめてよ、痛いよといいながら花も笑っていた。
宵闇の中に可愛らしい笑い声が二つ重なって響いた後、吸い込まれるように響きは失われる。花と梅はそろって大桜を見上げた。淡い桜色は、遠目から見れば雪のように白く見えるのだ。背の小さい二人はうんと首を伸ばしてみたけれど、どうしても手の届かないほど高い花びらたちは白くぼうっと光っているようだった。
「神様、ここに来るんだよね。帰るまで、ずっと居るんだよね」
「うん、くるよ。お面、そろそろ付けようか?」
ううん、と首を振って花は答えた。
「いいなぁ、神様。こんなにきれい。提灯だってきれいだけど、桜の光っているのの中にずうっと居られるんでしょ」
花明かりに照らされた横顔は、切なげに目を細めていた。
「――そんなに、いい物でもない」
唐突に、氷の声が聞こえた。音に温度などあるはずもないのに、触感などあるはずもないのに、確かに氷だった。長い間押し込められた、万年雪の生み出す氷塊。ほんの一瞬で、一瞬にも満たない刹那で、体が凍り付いた。
「・・・あ、うぁ、え、」
「どうせ体は動かないのだ。無理にしゃべろうとするな。・・・ふむ、花と梅か。良き名だな。あぁ、花は良い。実に好い。このためだけにわざわざ山から下りてくる意味がある」
なんでわたしの体は動かないの、なんでわたしと梅ちゃんの名前を知っているの、なんでこんなところに居るの、もしかして、あなたは――。
いつの間にか桜に腰掛けていた氷像は、気怠そうに首を傾げさせながらその唇を開いた。
「ああ、確かに僕は神だ。おのれらの言葉に合わせたら、になるがな。」
縮こまった筋肉を動かそうとしても、微塵も動かない。必死に奮闘していたわたしの脳裏に浮かんだ微かな疑問にさえ答えて見せた、その存在は――。
「桜、好きなの?」
瞬間、凍った空間に、梅ちゃんの声が響き渡った。
「ほう、おのれは喋ることができるのか。そのような者に出会うのは幾星霜ぶりか。今日は良い日だ」
「私の質問に答えてよ。桜の中にずぅっといられるんでしょ?そのために来たって言ってたよね?ねえ、そうなんでしょ?!」
梅ちゃんが、こんな声を荒げて、噛みつくように叫んでいるのを、わたしは、今まで聞いたことがなかった。いつも優しくてにこにこ笑っていた梅ちゃん。わたしが友達とけんかしちゃったら間に入って仲直りさせてくれた梅ちゃん。転校していく日、ずっと友達だよと約束した梅ちゃん。
なぜ、なぜ、なぜ……
「なんだ?おのれは桜の中に居たいのか?…否、そこに居たくないのか。本当に変わっておるな」
愛しい人に捧ぐ睦言のように、神に対する懺悔のように、梅ちゃんは告げた。
「私も、連れて行って」