バイト娘のため息
さっきから同じ動きしかしていない腕がジワジワと痛みを訴える。だけどこの動きを止めるわけにはいかない。
ただただ腕を横にスライドするこの作業。激しい痛みを感じる事はないけれど鈍痛と退屈さが辛さを倍増させる。
一向に終わりの見えないあたしの動きを見た親方が、ため息を吐きながら言ってきた。
「おまえ、まだそれ終わってなかったのか?いいか、これからここで働きたいなら3分で終わらせろ。じゃねーと効率悪いだろ?」
冗談じゃない!
20分かかっても終わっていないこの作業を3分でしろだって?
一体どう凝縮すればそんな化け物じみたタイムが出るんだ。
でもそれを実現させている人間離れが隣にいるからおとなしく頷くしかない。
「・・・・・・善処します。」
これでも早くなった方なんだよ!最初に比べりゃ!
あたしと違ってはじめからキッチンで働いていた隣の高井さんはといえば、我関せずとばかりに黙々と作業を続けている。
おいおい、手の残像しか見えねーぞ。
スライド、スライド、スライド、は見えるんだけどいかんせん肌色しか目に残らないからそれがどんな風にスライドしているのかが皆目見当がつかない。
仕方ない。無理矢理でもいいからもっと早く腕を振るとするか。
力を込めて腕のスライドを早めれば、脳に危険信号が走る。あーイタイイタイ。畜生、なんだよ、これ。憧れのバイトライフと全く違うぞ。これが理想と現実の乖離ってやつか、そうですか!
ふと視線を手元に移してみればどこまでも続く、白。
すってもすってもその白さは変わりなく、ただ形を変えるのみ。
今日は新鮮な魚が手に入ったって言っていたから刺身の添え物にするのかな。
あたしもそりゃ、食べる方なら好きだけどね。大根おろし。
学生がバイトをしている場合、その目的は大きく2つに分かれる。
金を必要とするか、しないか。
金が必要ない金稼ぎは極めて少ないだろうけど確かにいる。
社会での経験を積むだとか、人脈を広げるとか、趣味を兼ねているとかエトセトラ。
そして残念ながらあたしは金を必要としている金稼ぎ。
学生は勉強をしていればいいなんて時代はもう終わったってことだろうよ。そもそもそんな時代あったんだか。
ともかく。金を落とすように構成されている社会で生きている身としちゃ生活費交通費交際費諸々が必要だけど、親にこれ以上の援助を頼むなんて出来るはずがない。ってことはお金が必要なわけでして。
たまたま通りかかってこのお店を見つけたあたしはとってもラッキーだ。深夜まで開いていてだけど、そこらへんの居酒屋とは違ってインテリアに気を遣っているお洒落なバー。それもそのはず。
なんてったって、オーナー達が経営する完全に自立したお店なんだから。
そんでもって、そんなお洒落なバーで黙々と大根おろしを作るのが今日のあたしの仕事。
ちょっと待った、て話でしょ。
子供が起きているには遅い時間、程よい便利さを誇る街中のバー、客は上品に笑っている、美人なオーナーは今日も調子が良い、私の仕事は大根おろし。
キッチンで働いてみたい、って話したのは確かにあたしだ。
初めホールとして入ったあたしはずっと注文受けなど接客業をしてきたけど、キッチンの仕事も興味がある。
思い切って隣で黙々作業をするおっさんとこのお店のオーナーに頼んでみたらあっさりと了解を頂けた。
そして、今がある。
「よし、もう十分だ」
親方のその言葉を聞けたのは、あたしがどなられてから更に20分ほど経ったころだった。
さっき怒鳴られたときに比べれば大根おろしづくり時間が短くなった気がする。
「もう客も来ないだろうし先上がっていいぞー」
なんだ、もうそんな時間か。
必死に大根と格闘しているうちにすっかり夜も更けたようだ。このままだとすぐに夜が明ける。
「それじゃあお先に失礼します」
こういう時に遠慮をするなんて可愛げのあることはできないから、素直にさっさと帰り支度をする。夜の冷え込みはこれからなんだから。
「おう、気を付けてな」
いつものように面倒見の良い親方の声がキッチンに響く。
目があった高井さんも会釈をしてくれる。もう大根おろしはとっくに終わっていて、今はお皿の盛り付けを担当していた。
でも異常なほどに盛られたおろし。あたし作りすぎたかも。