アスノヨスガ

 

 見渡す限りの視界を、眩しいほどの純白が占めていくのを、その中にかつての理想の欠片が散り混じるのを、朝焼けがそれらをすべて濁していくのを、この瞳は視ていた。

 指先からつま先、細胞の合間を揺れ跳ねる電気信号、鼓動の一つ一つに至るまで何もかもがつめたい。はらりはらりと降り積もる雪が“私”を世界という名の背景の中に埋もれさせていく。

 “私”はただそこに立ち尽くしていた。体はとうに凍てついてしまったのかもしれない。薄い運動靴は容赦も加減もなくこれっぽっちの体温を流してしまうので、きっと寒さの感覚さえもうすぐ消える。雪と体温が同化してしまったその暁には、きっともう“私”は居なくなるのだろう。

 しろくしずかな街は、“私”が息をする間に夜へと変わっていく。

 

 * * *

 

 教室の真ん中の席の私は、黒猫のように辺りを見回す。

 取り巻く目が怖いのだ。見えない意志が怖いのだ。それでもそんな素振りを見せるわけにはいかない。臆病な性格で通っているならまだしも、ここでの役柄は優等生だ。何でもなさそうに頬杖をつきながら、早鐘のような鼓動を呑み込む。

 震える手で鞄から取り出した、一冊の文庫本だけが頼りだった。書店の在り来たりなカバーは昨夜の雨の湿気を吸って少しよれている。構わず栞に指を添え、開こうとしたところで、薄い装丁を透かして見える表題が目に入ったのだ。

『グレート・ギャツビー』。

 F・スコット・フィッツジェラルド作、アメリカ文学の代表作と言うべき名作の訳本だった。熱狂的なファンを多く抱える、著名な作家が翻訳したものであったのだが、オリジナルでない言葉群に用はないとでも言われたように、棚の隅にぽつんとうずくまっていた。丁度気取った外国文学でも、と名の知れた、しかし読んだことのない本を探していたところで拾い上げることになったのだ。

 丁度二章を読み終えたところだった。時を忘れて貪るように読み進めるのが常である私にとっては、奇妙なこととも言えた。それは読み終えてしまわないようにと無意識下で願っていた結果だったかもしれない。今の私に縋れるものと言ったら、この小指の爪にも満たないほど小さな文字が綾なす物語だけなのだから。

 いつか中断した頁を開けば、周りの音はまるで人払いの魔法でも使ったように遠ざかった。心地よい一人きり。本鈴が鳴るまでだけの夢だ、それも悪くない。

 誰にも聞こえないように、そっと息をついた。

 途端、周りの背がぐんと高くなったような心持がした。驚いて顔を上げるも、もう私の目線は級友の膝の高さと変わらんばかりになっている。何が起きたかと足元を見れば、まるでくり抜かれたように傷だらけの床板はぽっかりと口を開け、ゆるやかな重力に引かれて落ちつつある自分に気づく。手に持っていたはずの単行本も、確かに触れていた椅子の官職さえ唐突に焼失していた。

 ああ、空の中に沈んでいる。

 慌てた声一つ上げることなく、すとんと胸に落ちた事実を受け止めた。

 永遠も輪廻もやわらかすぎて、“私”を受け止めてくれない。だからどこまでも、どこまでも落ちて往ける。

 ゆっくりと、つめたく。

 

 瞳を見た。

 数えきれないほどの、見覚えのある瞳だ。知った顔が並んでいた。落ちていく私を見ていた。背中に真っ白な翼が見えた。

 待って、待って! 置いて行かないで!

 落ちていく私と反対に昇っていく。羽ばたきで生まれた風に頬が叩かれた。

 うんと手を伸ばした。誰か掴んでよ! みんな嘲笑った。

「そうか、君は翔べなかったっけ」

 ――たとえ翼がなくったって、行きたい場所なんかない。

 だから、翼なんて要らなかった。飛んでいきたい場所も相手もないなら、このままずっとここに居ようって、そう思った。

 だけど、少し甘えたね。

「私も連れて行って!」

 こんな台詞吐くつもり、あったかな。

 

 形を失った夢が空色の海に溶けていくのを、それを淡い朝焼けが引き上げていくのを、私はずっと見ていた。

 羽を捥がれて沈んでいく。それは掬われなかったアイのかたちだ。

 はらはらと、零でも一でもなく崩れてこぼれた“私”は、塩辛い水の中で息をしていた。見上げた“私”の瞳から脳天へと突き込まれた光の槍は、存在そのものを根底から揺さぶった。

 ああ、“私”なんて厄介だ。ばらばらになってしまえたらいいのに。

 それでも叶わないまま“私”は堕ちていく。もどかしいほどに熱い海で、ひんやりした“私”が残っている。先端から沁み込んでくる涙がこそばゆい。痛いようで、そうでもないようで。

 あっという間にふやけ、感覚が遠ざかっていって“私”はひとりになる。

 ひとりの“私”が落ちる。

 

 * * *

 

 落ちて、落ちて墜ちて堕ちて。

 あおい草むらの上に、泣きながら寝ころんでいた。

 先ほどまでの雪も降り止んで、ちらほらと雪花が残っているのが目に留まる。体は命を吸い取られたように冷え切って、涙が頬を伝うのさえもう感じ取れなかった。

 海の底のような夜だ。すべての音がこもったように遠ざかる、淋しい時雨が降り止まない。

 だあれもいなかった、なんてね。

 いつだって、そうだったろ。周りの人はただそこに“在る”だけで、“居る”んじゃなくて。私が居ても居なくても、彼らの存在は揺るぎもしない。だから、誰が視界にいなくても、私はいつもの如く薄笑いを浮かべて、歯の浮くような綺麗言を吐き続けるだろう。それが解っているからこそ、今だけは泣かせてほしかった。

 嘘をついていたのは私。そのくせして弱音を吐くの?

 馬鹿らしいと笑ってほしかったのかもしれない。冬色の目をした皆に気づいたのは、冬のなかに同じ色を見たからか。

 もう遅いと思いながら、ごめんなさいと言おうとした。

 しかしそこではたと我に返る。全て自分の中で帰結する話だというのに、突然謝られた側は一体どんな顔をするのか? 困り果てるか、憐れまれるのか、意味が解らないと笑い飛ばされるのか。

 嘘に気付いている人がどこにいる? この私を除いて――。

 誰を前にしなくても、喉の奥で言葉がしぼんで消えた。

 

 視界はぱちんと移り変わる。

 

 電飾の空々しい光が景色を染める、その中を歩いていた。季節はずれの薄着では、まるで飲み込まれそうなほど強い冬の実感が肌に寄り添う。コートを羽織ってくればよかったな。ふう、と漏らした息が白く霞む。矮小ながら鋭い冷気の針は、くまなく私の全身を刺し尽くした。それも当然で、私が身に纏っていたのは薄手のチュニックに七分丈のジーンズ、加えてフード付きのパーカーのみ。浮かれた街に乗せられることを拒む私には相応な格好であるようにも思えた。

 確か、欲しいものがあったっけなあ。

 いつもいつもあおい世界しか見ないから、もう星の青も空の青にも、もっとつめたくてあおい表情にも見飽きてしまったから、冬の街に出ようって、そう思ったんだった。

 

 クリスマスに浮き足立つ街には、いろんな物が売っているんだって。

 普段のお店に並ぶものはみんな隠れちゃって、クリスマスだからと贈り物を探す人のための、いろんな物があるんだって。

 見つかるかなあ、欲しいもの。

 ――欲しいものって、なんだったっけ。

 通りの赤と緑で華やいだショーウィンドウには、笑いも泣きもしない空っぽな私が映っていた。

 

 * * *

 

 僕はペンを執って、意気揚々と書き始める。

 『僕だけの世界が創りたいんだ』。

 『多くの作家さんがそうしているように』、

 『僕だけが想像した世界を言葉にして』、

 『読んでいる人をわくわくさせたい』。

 無邪気に綴られる言葉たち。奔流と表現するに相応しく止まらない指。たちまち文字が流れ出す。終点にちらつくピリオドと点滅する短線。粗削りなところには少し目を瞑って。

 

 ――それがお前の物語だというんだな?

 

 うん。僕だけの物語だ。僕の想像が生み出した僕だけの世界。

 

 本当にそうだと思っているなら――言ってあげようか。

 とんでもない阿呆だ。

 

 どこかで見たようなストーリーライン。

 在り来たりなキャラクター設定。

 誰でも思い付く、よくあるゲームの舞台のような世界観。

 どこがお前だけなのか教えて欲しいね。

 

 使われてきたってことは……その間に洗練されてきたってことだろ! 多くの人に淘汰された想像なんだ!

 

 洗練? 淘汰? 上手い形容をする。

 だがどう言い繕ったところで、隠れた残骸はこう囁く。誰かの使い古したアイディアの端を掠めただけに過ぎないじゃないかと笑いやがるのさ。

 ほら、もう間違えたのに気付いたか。お前はもうそれが自分だけのモノでないと認めてしまった。

 

 慣用的表現って言うだろう。使われ慣れちまった言葉たちだ。引きずり出す度に、嫌な顔をするのも面倒だと黙っているからいいが、どれだけ厭きて嘲笑っているのかだってわからないね。

 そいつらを平気な顔して組み込んで、挙句の果ては『創作』の弐文字か。はっ、いけねえ。俺の方が笑っちまうところだったぜ。

 少し『ソウゾウ』ってものを甘く見ちゃいないか。

 俺には独創が今のこの世に存在すると思えない。

 

 声は笑ってそう言った。

 僕はひとりで蹲った。

 

 僕の知らない世界に、僕の想像があった。

 紡ぎ出したモノには僕である意味も、理由も無くて。

 ――ああ、それがなくちゃ、それがなくちゃ僕は――

 

 ああ、違うね。

 作り出すのは僕じゃなくても良かったのか。

 

 だとしたら僕はどうして、此処にいるんだ?

 ここに居るのは僕じゃなくてもいいって言うのなら、誰か代わってよ。言い値も無し、譲るさ。だってこんなの、哀しすぎるよ。

 僕の代わりがここに居てくれるなら、僕はどこかに行くからさ。

 何処かに行って何かを見て、感じて、触れて。

 どうせそれはどっかの誰かに先を越された景色だろうけど、僕が、誰でもなくこの僕が居なきゃいけない処を探すんだ。

 

 * * *

 

 どくん。鼓動がまた一つ波を打つ。波及するはずのそれはどこかで途絶えて。

 すう、と吸いこんだ冬の空気はつんと痛んで、涙を呼び起こした。

 その優しい痛みがまだ、私の“生”を繋ぎ止める。

 つめたくて、甘くて、透明で、純粋で、潤んでいる。涙を湛えた私の鼓動は、息遣いは、海に溶けた雪のようだ。世界にはあまりに多くの、霞んでしまうほどのアイが溢れているから、こんなちっぽけな私は埋もれてしまう。

 だから痛いままでいてよ、と心臓に囁いた。

 辛いままで、苦しいままで、哀しいままでいてよ。そうしたらもう少しだけ、頑張って息をするよ。

 他のだあれも見付けてくれないのに、私すら見失ってしまったら、もう二度と浮かんでは来ない。深い海の底で、波間に揺れる光を見上げて、冷たさも泡沫も身体も忘れて揺蕩うだけだろうから。

 ――それは、嫌なの。

 

 * * *

 

 ああ、僕いたいよ、ここがいたいんだ。

 どうしようもなくいたい、泣いちゃいそうなくらいいたいんだ。誰かたすけてよ。

 

 ほら、また君は言葉を間違えた。

 君のここでの本当の台詞は、そうじゃないだろ。

 だってぼくはこう訊いたんだから。

『君のいたいところはどこ』ってさ。

 指先も頭も腕も足も心臓も、爪も髪も関節も血の最後の一滴までもつめたくなってしまったかい。

 でもまだ解るはずだ。何故なら君はまだ生きていて、何故ならぼくがまだちっぽけな体温を君に分け与えているから。君が脈打っているのを、鼓動を叩いているのを、息をしているのを、感じている。

 だから、言葉にしてごらん。

 本当の台詞を思い出してごらん。

 それは元からきちんとした形を成していなかったかもしれないけれど、今言葉になる。

 さあ、もう一度問うよ。

 ――君の居たい場所(ところ)は、どこ?

 

 * * *

 

 ねえ、聞こえるかい。

 マホガニーの扉が数インチ開いているんだ。

 風にゆるくあおられ、焦らすように隙間は広がり、狭まり、君を手招きする。その向こうはノイズの嵐だ。きっと君の眼は曇り、そこらから押し寄せる天使の歌声で、悪魔の囁きに耳を貸したくもなるだろう。いいんだ、うなずきさえしなければ、それを聴いたって。行き着く先はたとえどちらが手を引いても、変わらないんだから。

 そうして真っ暗な闇の底に放り出される。でも取り残されては駄目だ。先が見えないだけだ。藍色に光る星の原っぱを渡るんだ、そう、君が落ちてきたとき、そこに居たろう。

 

 ぼくはそこで待っているよ。

 

 * * *

 

 もう一度だけ機会をくれないか。

 先の言葉を言い直させてほしいんだ。

 

 ああ、僕居たいよ、ここに居たいんだ。

 どうしようもなく居たい、泣いちゃいそうなくらい居たいんだ。誰かゆるしてよ。

 

 ――ああ、やっと思い出したのかい。

 遅いよ、もう。 

 

 * * *

 

 目を灼いたのはあかい夕暮れだった。橙に縁どられた紫の雲が風にたなびく。

 夕暮れに背を蹴り飛ばされた夜は、ほんのすこし色を放った。それを雲が受け取って、それきりだ。申し訳とばかりにすまなさそうな顔をした夕陽は、追い出すがごとく光を叩き付けた。夜と一緒に巻き込まれた私は眩んでその場に伏せる。

 遠く遠い記憶の底から打ち寄せる子供の声。

「もうこんな時間だね。そろそろ帰らなきゃ」

「また明日ね!」

「うん、きっと遊ぼう!」

 ――楽しそうだな、と思う。

 確かにそこに居たはずなのに、どこか客観的な風景だった。この時間に刻まれた記憶はどれも似たようなもので、楽しかった時間に目を瞑った私は他人事のように感想を呟く。集約してひとつ。

 ――羨ましいなぁ。

 どうやら昔からさほど感情移入と言う奴は得意でなかったようで、見守ることに慣れていた。

 目の前にある景色と私の間に存在した、透明過ぎて認識も難しい硝子一枚。面会室のように、壁越しで手を合わせても温度の一つも伝わらない、向こう側がそこにあった。

 

 ねえ、まだ君はそこに居るかな。

 間に合うなら、その手を掴みに行きたいんだけれど。

 

 ――まったく、いじらしい言い方をするな。

 ――待っていて、ってひとこと言えばいい話だろ?

 

 ……言えたら、苦労しないってば。

 

 ――言った通りさ、待っているよ。

 『夜は夕焼けの後に訪れる』ってのは、論を俟(ま)たない。

 

 * * *

 

 気付けば『グレート・ギャツビー』も二章に戻っていた。

 

「そのドレス、好きよ」とミセス・マッキーが言った。「素敵じゃないの」

 ミセス・ウィルソンは蔑むように眉を上げて、賛辞を一蹴した。

「あほらしい古い服よ」と彼女は言った。「なりなんてどうでもいいというようなときに着るだけ」

「でもとてもあなたに似合っていると思うな。私の意見を言わせてもらえればね」とミセス・マッキーはめげずに言い張った。

 

 時計の針は秒針が一周したのか、二周したのか、ともあれ僅かばかりの時間しか経っていないようだ。

 雪がちらつき始めたのはその時だった。

 わあっと盛り上がった窓際の女の子たちにつられるように、ざわめきはゆるやかに流れた。初雪だ。どこかからそんな歓声が上がる。

 ……初雪? 今年もう既に、いつか見た覚えが……。

 記憶を探り始め、すぐに思い当たった。

 あの時、“私”が立ち尽くしていた夢であらゆるものを凍てつかせるように降っていた雪は――おそらくもう少しだけ、今降っているそれよりやさしくなかったような。

 ベランダで騒ぎ立てるクラスメイトをちらりと見やる。普段だったら一つ嘆息して終わりにしただろうが、今日は柄にもなく本を閉じて立ち上がる。人の群れの中に紛れた私に誰も気を留めない。少し身を乗り出して手を差し上げると、ひとひらの切片がふわりと指先に止まった。

 じわりと溶けて滴る。

 すこし、つめたい。

 

 了