Moon Step

 

 目の前に広がる、どこまでも殺風景な、でこぼこの地面。幼き日に夢見た月面に、僕は今、両足を地につけて立っている。

 あれは確か、僕がまだ四つか五つくらいの頃だっただろうか。叔父の天体望遠鏡をこっそり覗いたときに見た、黄金色に輝く月が、僕はどうしても忘れられなかった。彼の地に足を踏み入れてみたい、僕の足跡を刻みたい。そんな思いが、僕を宇宙へと駆り立てた。

 「トーヤ、どうだい?初めての月は。」

 アルフレッドが、ロケットから降りてくる。彼はアメリカ人で、僕よりもずっとベテランの飛行士だ。

 「今、地球から月を見ている人たちは、僕たちがここにいるなんて、考えもしないだろうね。」

 

「人間というのはちっぽけなものさ。ここから地球を闊歩している傲慢な人類の、たった一人さえ見えないくらいね」

 アルフレッドは何でもなさそうにそんなことを言うけれど、その目には隠しようもない輝きが見て取れる。

「月から地球を見ることは、もちろん初めてではないけれど。何度見たってこの感動は褪せないな」

 僕は彼の視線につられるように、眼前で青く煌めく大きな星を見つめた。素晴らしい、と言葉もなくため息を漏らすが、それもさしたる感動ではない。

 今自分の足下に広がっているこの殺伐とした大地が、地球から見れば神秘的な光を放ち、古代からやれウサギの棲み処だの、餅をついているだのと言った伝説の発端となっている。それが例えようもなく不可思議で、胸を奮わせるのだ。

「宇宙はいいなあ、それも月は格別だ。そう思わないか、アルフレッド?」

「月しか知らない青二才がよく言うよ。だが、賛成だ。きっともう少し技術が発達したら、月にも住宅が建設できるようになって、インフラも整備されて、コロニーが出来ることだろうな」

 その言葉に、鳥肌が立った。

 それが果たして驚愕から来たものか、恐怖から来たものか、はたまた全く別の感情から呼び起こされたものかはわからない。胸の奥にどすんと重たく落ちたのは、たった一つの事実であり可能性だ。

「月に建設、ね……」

 このまっさらな大地の上に人工建造物なんぞが建てられた暁には、地球から見られる輝きはいったいどうなるのだろうか。こうしてまっさらな月に来れるのも、これが最後かもしれない。そう思うと、無性にこのまま寝っ転がりたくなった。

「なあ、アルフレッド。少し横になってみないか?」

 アルフレッドは苦笑いで答えた。

「上手くいくはずがないよ。プカプカ浮いちゃうんじゃないか? そんなことより、船外にいられる時間も限られているんだから、早く仕事を済ませよう。」

 上手くいかないことは分かっていたが、どうしても寝ころんでみたくて、僕はアルフレッドの言葉を聞き流してゆっくり体を傾けた。

 こんなに重装備なのに、体は地球よりも軽く、実体感がない。今にでも、この暗く明るい無限の空間の塵となってしまいそうなこの体を、繊細な砂をたたえた月の大地が静かに受け止めた。

「トーヤ。」

 あきれ顔のアルフレッドの顔が、上に覗いた。

「この魅惑的な星に這いつくばったご感想は?」

 耳元で、なぜかさらさらとしたその砂の音が聞こえるようだった。かすかな砂の音は、広大な時をこの瞬間まで紡ぎ、ささやきかける。

「・・・最高さ。」

 アルフレッドは僕の目をのぞき込んで、ふっと笑った。

「それはよかった。だがおまえは青二才だな」

 アルフレッドが手を差し出してきた。

「さっさと仕事を始めるぞ」

 

 無事に目的を果たした僕とアルフレッドは、船内に戻り記録をとっていた。

「ねぇアルフレッド。どうして君は宇宙飛行士になろうと思ったんだい」

 何となく今まで聞いたことのなかった質問を投げかけると、彼は地球と同じ色をした瞳を柔らかく細め、微笑んだ。

「愛する恋人と約束したからさ」

「はは、それは情熱的だなぁ。どんな約束だったのか、聞いてもいいか」

 もちろんさ、と答えたアルフレッドは、少しわくわくした様子で話し始めた。

「僕の恋人は少し気難しい人なんだ。何というか…仕事が大好きな人でね」

「うん、それで?」

 

 

「彼女にプロポーズしたんだよ、ずっと前に。その返答が、『私と共に歩んでください』だったわけだ」

「いったいどういう意味だい?」

 アルフレッドは体を揺らしながら、そっと誇らしげに僕に告げた。

「当時からずっと、彼女はNASAの月面開発センターに勤めている。そして僕は彼女の夢を叶えるために、共に歩み続けるんだ。彼女は地球で、僕は月で」

 彼が告げたその理由は、まだ恋を知らない僕には輝いて見えた。

 

「彼女はね、頭がいいんだよ。ものすごく。」

「ものすごくってどのくらい?」

 ものすごくという形容詞は曖昧だ。アルフレッドは滅多にそんな誇張をするような人間ではないが、その彼がそんな形容詞を使うのが不思議だった。

「えっと、ハーバード大宇宙物理学科主席卒業。」

 う、と僕から声が漏れたのを彼は聞き逃さなかったようだ。まあ女でそんなやつってびっくりするよな、とも言う。

「じゃあ宇宙飛行士だってなれるじゃないですか。」

 僕の何ともない質問に、アルフレッドは少し迷った。

「トーヤ、神様って言うのは二物を与えないんだ。」

 いきなり何を言うのか。

「彼女は頭がよかった。その代わり、といっては何だが、いや逆か。小さい頃に交通事故にあって足が動かないんだ。」

 ひゅっと僕ののどが鳴った気がした。

「だから宇宙飛行士にはなれなかった。だから、僕は彼女が月にいけるように宇宙飛行士になって、月の開発に携わるようになったんだよ。いつまでかかるか分からないけど、彼女と一緒にここから地球をみるのが夢なんだ。」

 夢を語るアルフレッドは希望に満ちていた。愛の力ってやつなのかもしれない。

「じゃあ早く任務を終わらせましょう。少しでも月の開発が進むように。」

「そうだな。」

 彼は照れたようであちらを向いてしまった。僕も彼のような人間になりたい。白い月面に足跡を残した。