月下の約束
低く昇る月。
輝かない月を、その夜初めて見た。
遠い青黄金の光が差し込む下、金木犀が何処からか香る。
「本当に、行くのかい」
それはとても静かな夜だった。丘の斜面に寝ころんだ二人の声と、鳴き出した虫の涼やかな音色のほかに、何も聞こえない。
重なった指と指がほのかな体温を伝えているはずだった。しかし、微睡んだ夜は容赦なく夜風を吹かせ、消えかけの冷たい温度が飲み込まれていく。
「ええ、行くわ」
少女は握っていた手を離すと、ゆっくりと身を起こす。
彼女はここから居なくなるのだ。都へ行って、大きな学院に通う。そしてきっと、行ってしまったらもう二度と帰ってこない。
このまま暗い天蓋が存在ごと彼女を拐っていってしまうような、そんな漠然とした不安が胸に沸き起こって、何かに捕まらないと一緒に消えてしまいそうだった。だから傍の手のひらが優しく光っていたような、そんな幻想を見たのだろうか。僕は自然とその手を取ってぎゅっと握りしめていた。
「行って欲しくない」
照れたように顔を真っ赤にした彼女に、手を振りほどかれ、僕はごめんごめんと小さく笑ってみせる。
怖かったんだ。そんな弱音はいつの間にか消えていた。彼女が笑っていたから。
「大丈夫よ、いろんなことを勉強して、そしたらきっと帰ってくるわ。大丈夫、ねえ泣かないで」
「泣いてなんか――」
言葉尻がゆらゆらと響いた。誤魔化しようもない涙の証拠だった。
「泣き虫さん。そんな顔されたら、本当に行きたくなくなっちゃうわ」
僕は慌てて頬を伝うしずくを拭う。ずっと一緒にいた彼女のことだ、彼女が都に行って音楽を学びたかったことも、僕がもう一度抗えば本当にその夢を諦めてしまうことも、僕は知っていた。
「きっともう一度会うんだよ。きっとだからね」
震える声で途切れ途切れにそう言うと、彼女は寂しそうに笑って一つうなずいた。
「ええ、きっと会いましょう。だから、さよなら」
彼女は立ち上がると僕を置き去りにして走り出した。夜が終わるよりずっと早く駆け去ると、僕は一人残されて月明かりの中に照らされていた。
それから数年。
僕は、充実した生活を送っていた。手に職をつけ、安定していたし、仲間にも囲まれていた。大変だけど、仕事は楽しいし、自分の手でお金を稼げるようになった今、趣味にもそれなりにお金をかけていた。ただ、彼女のことを思い出すことは、日に日に少なくなっていった。
「なあ。お前もそろそろ良い嫁を娶る時期なんだぞ?」
同じ職―――地元の小さな郵便社で働く年上の者たちにそんなことをよく言われるようになり、僕はそのたびに肩をすくめて笑っていた。
「誰か良い女でもいれば良いんですけどね」
「そんなら、俺が紹介してやろう。」
「期待してます」
現実問題として、僕はそろそろ嫁をもらって、親を安心させないといけないのだ。
「おい。」
肩をぽん、とたたかれて振り向くと、一番年老いた男が、すでに外套を羽織って後ろに立っていた。
「私はそろそろあがらせてもらうがね。君もほどほどのところで切り上げて。」
「ええ、もちろんです。お疲れ様でした。」
書きかけの書類に目を落とすと、気づかないうちに疲労がたまっていたのだろうか、目頭の奥がじわりと熱を持っているような気がした。少し気分転換でもしよう。そう思い立つと、傍らにあった煙草を手に取り、僕は部屋を出た。
裏に回り煙草に火をつけふかしていると、道行く人々の中に、一際上質な服を身につけた女性が目にとまった。
こんな田舎に来ると言うことは、帰郷しているところだろうか。重そうな鞄を抱えた女性は、誰かを捜しているのか、きょろきょろと辺りを見回していた。
右目の下に泣きぼくろ。
それが彼女のチャームポイントだった。
僕が見た女性は彼女の面影を宿していたが、右目に泣きぼくろはなく、左目だけに泣きぼくろがあった。
最近彼女のことを思い出していなかった分、彼女の姿を探してしまったのだろうか。煙草を吸いながらそう自嘲した僕は、そのまま部屋に残してきた仕事をしに戻ろうとした。
しかし何の因果か、女性は僕に声をかけてきた。そのときの気持ちを僕が知ることはできないが、もしかすると彼女が僕たちを導いてくれたのかもしれない。
「すみませんが、鞍馬永牙さんをご存じありませんでしょうか?」
「あなたは?」
「私は、その人の知り合いの女性の妹である矢筈紫苑です。」
鞍馬永牙、それは紛れもなく僕の名前。それを名乗ると、その矢筈紫苑と名乗った女性はよかったとつぶやいた。
「姉から伝言があります。」
伝言。彼女から何か僕に対しての伝言なんてあったろうか。伝言はどちらかというと、僕の方が、紫苑さんに託して彼女に伝えて欲しい物だった。
「姉が言ってました。鞍馬君を縛っていたくない、忘れて、だそうです。」
「え?」
紫苑さんの右目の泣きぼくろだけが彼女と違う。それに少し寂しさを覚えた。ここにいるのが彼女だったらよかったのに、そうしたらどうしてそんなことをと尋ねることができたのに。
「姉は、あなたのことをずっと気にかけていました。だからもう待って欲しくなかったんだと思います。」
そんなこと関係ない、と僕は彼女に当たった。理不尽だった。そんなことを勝手に決めた彼女と、それに黙って従ってきた矢筈紫苑と名乗る女性と、それを全く知らなかった僕が悲しいほどに理不尽だった。
「でも、姉が、それを望んでるんです。」
彼女はそう言って、鞄をおいてそのチャックを開けようとしゃがみ込んだ。
「これ。もう鞍馬さんの物です。」
彼女がそっと両の手で差し出したのは彼女がいつも吹いていた笛だった。
「姉はもうこの笛が吹けません。」
悲しい宣告。なんで、と発そうとした言葉は喉の奥にぺたりとくっついて、かすれ声しかでなかった。
「早くこれを受け取って。それで…もう、行ってください。」
待ってくれ。こんなものを渡されたら、余計に忘れられないじゃないか。僕はただただ、金魚のように口をぱくぱくと動かすことしかできなかった。
「…か…じょは…彼女は、矢筈華凛は、今、どこにいるんですか!」
やっとのことで、震える声を絞り出す。すると、紫苑さんは悲しそうに、ふるふると首を振った。その顔に、陰が差したのを、僕は見逃さなかった。
「それは…言えません。」
「姉に固く口止めされているのです。告げたら、鞍馬君は絶対に私のところへ来てしまうから、って。」
本当は今すぐにでも駆け出したかった。街を抜け、草原を、荒野を、砂漠を、馬にも乗らずに都へと駆けていきたかった。
「…分かりました。あなたの口から言えないのであれば、自分で探します。僕が、都へ行って。」
今にも泣き出しそうな顔になった紫苑さんが、僕の腕をぎゅっと掴む。そして、観念したように口を開いた。
「姉は…姉はもう永くないのです。」
「…都の学院に行く、なんて、嘘だったんです。本当は…、都の名医の元に、養生に行っていたんです。」
「そんな…。馬鹿な…。」
僕は茫然と、紫苑さんを見つめる。数年の間、彼女は僕を騙し続けていたというのか。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。でも…姉を、どうか責めないでやってください。姉は、鞍馬さんを心配させたくなかったんです。自分のせいで、鞍馬さんの人生を狂わせたくなかったんです。」
僕の右眼から、涙が一筋零れ落ちる。必ずまた会おうって、約束したじゃないか。嗚呼、こんなことなら、手紙の一つも交わしておけばよかった。都に会いに行けばよかった。しかし、今更悔やんでも、もう何もかも遅い。
「姉はきっと、自分の痩せ細った姿を、苦しみに喘ぐ姿を、鞍馬さんに見せたくなかったんです。鞍馬さんには、あの頃の笑顔だけを見ていてもらいたかったんです。だから…お願いです。都へ行かないで。姉の最後の願いを…どうか、聞いてあげてください。」
涙はいつしか両の眼から溢れ出し、それは涸れるということを知らなかった。僕は静かに一礼し、ゆっくりとその場を立ち去る。彼女の象牙の笛を携えて。
漆黒の空に、望月が恨めしいくらいに明るく輝く。僕はかつて彼女と別れたあの丘の上に立つと、そっと唇を笛にあてた。澄み切った音色が、宵闇の静けさに溶けて消えていく。どこか悲しげで、愁いを帯びたその旋律が止んだ時、カシャン、と華奢な音を立てて、白磁の色をした笛は粉々に砕け散った。
了