ロスト・ラック
ロスト・ラック
目の前に広がるのは朝か、昼か、夜か。はたまた草原か、氷河か、宇宙か……。
この窓はどこへでも繋がることのできる不思議な窓である。それを偶然にも手に取ってしまった少年――秋本祐樹の物語は今、動き出すのであった。
いつものように学校への道を歩く。道ばたの花に見とれるような心も時間も持ち合わせていない僕は、早足でアスファルトの上を走っていた。息が乱れても「今休んだら、遅刻をする」と自分に言い聞かせて。
道の右側に茂みが現れ始めたとき。その茂みの中に、とても不自然な様子で捨てられているゴミがあった。ゴミにしてはやけに真新しいのだ。思わず、僕は進行方向を変えた。別に、「こんなところにゴミを捨てるなんて、なんてやつだ」と思ったわけではなく、ただ、惹きつけられるように体が動いてしまっていた。
のぞき込むようにしゃがみ、それを手に取る。
その瞬間鮮血が舞った。
澄み渡る朝の空気中に、祐樹の赤が見事なコントラストを描いたのだ。放射線を描きながら吹き出すそれを、ゆるやかに時が分割されるのを感じながら祐樹は見つめ、幾何学のそれではないほどに美しいと思った。
何が起きたのかわからないまま数秒がたち、ふと我に返ると心臓が高らかに鳴っていた。祐樹の手の甲は赤く染まっている。そして中に入っていたものは仰向けに地面へ倒れ伏し、血で少し汚れていた。
あれは何かの生き物なのだろうか。手に取ったとき、軟骨か何かの柔らかい組織が砕ける感触がして、その後すぐ手の甲に鋭い痛みが走ったのだ。祐樹は得体の知らないそれをそっとのぞき込んだ。
周りは青々と茂る通学路の並木から刺すような日差しが漏れ、清々しい草の薫りがする。真っ白い夏が頭上から降り注いでくるようだ。
意を決してそれを手に取ってみる。今度は慎重に、両手で。
今度は何も起きない。
祐樹はほっと息をつくと、あちこちを点検し始めた。といっても、つるりとしたクリーム色のひんやり軟らかいこの物体は、どこをまさぐっても一様に同じ手触りでしかない。先ほど何か押し砕いたはずだと思ってふにふにとつついても捉えどころのない、およそ芯というものの全くない半固体だ。少し大胆になって、ひとつまみぶちっとちぎってみる。なま白い球が一つ分離する。
なあんだ、とつまらなくなってそのひんやりを草むらに放り出した。手の甲の傷はじんじんと熱を持つが、気温の高いこの道ではとくにそれも気にならない。学校に行かなきゃ、と思って見回す。
驚いた。
眼前に広がるは、ひろいひろい青だ。先ほどの通学路は影も形もない。上を向いても、右を、左を向いても、どこもかしこもうらめしげなぼんやりひかる青。何気なく足元を見下ろせばそこも青。自分の足が地面を踏んでいないことにふいに気がつく。あっと思った時には体が下へ下へと落ち始めていた。何もない下へ、下へ。それがやけに遅々として進まないので不審に思うと、これが海の中だと突然意識した。海の中――呼吸は、と思った瞬間に水の圧迫感が肺臓を襲う。体温が急激に広大な青い世界へ吸い込まれていく。
「たすけて」
叫んだ瞬間、目が開いた。
否、より正確には、見開かされた。
呼吸を意識する暇も無い瞬間の中、網膜をアトランダムだとしか思えない文字列が流れ落ちた。
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「…………っっっっ!!!」
声にならない悲鳴を上げた少年は、その顔を、目を、掻き毟る。のたうち回る彼に一つの声がかけられた。
「祐樹?なにしてんだ?」
「う……あ…洋多……?」
何やってんのかは知らんが学校に遅れちまうぞ、とあきれ混じりに告げられる。
「……え、あれ!?海は?」
いくら周りを見渡しても、そこには少し背の高い草々と見慣れた道が写るだけだった。
そして気づく。
「あれ……痛みも無い!?」
「さっきから何言ってんだ?」
いくら目を擦ってもあの海は現れない。あの痛みも蘇らない。手についていた筈の傷すらない。すべてどこかに消えてしまった。
「……いや、何でもない。学校行こうか」
「どうした?いよいよボケちったか?」
なんて冗談交じりに言う。そんな訳あるか、と少年も笑い混じりに返した。
彼らが踵を帰した後の茂みで、一瞬にして何かがから消えた。
それに会うのは、あなたかもしれない――
Fin.