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  *なぜか

 初雪が降った。

 十一月のすごく冷え込んだ夜で、私は塾の帰り、暗闇を一人歩いていた。

 雪がしんしんと降る。夜の大きなぼたん雪はこの表現がとてもぴったりしていて、昔、この言葉を考えた誰かに、感嘆のため息を吐き出した。

  雪やこんこん、あられやこんこん

  降っても降ってもまだ降り止まぬ

 風のない真っ暗な夜に、大きないくつものぼたん雪はゆっくりと舞う。降っても降ってもちっとも止まずに、人の気配も足跡も消していく。今日の雪は平和だな、と、ぼんやり浮かぶ街灯を見上げたら、雪がほほに降りかかって解けていった。

 都会では、まだ雪は降っていないのだろう。

 十一月の雪は、ここでこそ当たり前だけれど、ここより南の「都会」で降った日には大騒ぎだ。都会は生活力に欠如する弱くきらびやかな都で、人の気配がくらくらするほどに濃くて、硬い灰色の街だ。この大きな北の街に住む私たちからすれば異郷だけれど、話題にしたって取るに足らない、関係のないところだった。

「…。」

 それでも、私の欲しいものはそこにあるなんて、おかしな話だろうか?

「手にとどかんものを欲しがったところで、むなしくなるだけさ。」

 この北の街に、昔からずっと住んでいる、いかにも保守的になってしまったお婆さんたちの口癖だ。

 手に届かないからの負け惜しみっしょう?、っていったら、口達者な子ねぇ、って笑われた。

 あの街に興味はない。

 でも、欲しいものがあそこにある。

 ふと気づけば、運動靴が雪にぐじゃぐじゃと濡れていた。

 

「馬鹿じゃないの?しもやけになるわよ。」

「わかってるよ。」

「ちゃんとお風呂で暖まったら薬塗るのよ。」

 運動靴に新聞紙を詰め込みながら、母に返事を投げ返した。たちあがって自分の足を見てみれば、すでにもう真っ赤になっている。

「今更おそいっての。」

 台所の母には聞こえていないみたいだった。

「ねえー、ご飯できたら教えて。」

「後十分くらいよ。すぐだから寝ないでね。」

「はいはい。」

 今晩は多分豚汁だ。

 部屋にはいれば、灰色のまだら猫が待ちかまえている。

「かゆいから、しもやけ踏んづけないでね」

 猫はにゃあん、と鳴くだけだった。

 綿入りの半纏を上からかぶって机に向かうと、私は緑色のいびつな箱を開けた。

 ひとりでに、ピンをはじく甲高い音が懐かしい旋律で流れ出した。

 都会なんて興味はない。

 一度きりでも、そこは私の住んだ町だったけれど。

「おまえは帰ってきたんだろ。」

 小さい頃よくキャラメルをくれた、はす向かいのおばあさんが、頭の中でかすかに笑ったようだった。

 懐かしいこの街に、帰ってきたんだろ。

 ちろちろ、ピンの音がゆっくりと消えていく。

「ご飯よー」

「はあ~い」

 別に、ここを出たのも、帰ってきたのも私の意志じゃないけれど。

 

  *ほんもの

 その朝は、つるつるとひどく滑る朝だった。

「雪だー!」

 友達と一緒に外を歩きながら、大人たちの雪かきに苦労する様を見物していた。

「滑るから気を付けんのよ」

 あきほ、というその友達の母親は、朝早くからきた私を家に上がらせて、暖かいお汁粉を食べさせてから、そんな言葉で送り出した。

「うちの水道でなくなっちゃったんだ。」

 あきほは氷の固まりを蹴飛ばして言った。

「うちの裏のもだよ。ちゃんと出しといたのに。」

 現に、初雪の翌々日なのに正月のように冷え込んだ夜で、油断していたご近所さんたちは軒並みやられたようすだった。

 この近辺では、冬の夜は水道管が凍ってしまうので、みんなわざと水道を垂れ流しにしておく。それが今日はどこの家でもかちかちのつららに凍り付いて、雪に透明な陰を落としていた。

「ここはもうこんなだけど、まだ向こうは全然なんだろうね。」

「うん。・・・ねえ、かよまさか、また向こう戻りたいの?」

「え?」

 虚をつかれて考え込んで、けれどすぐに私は首を振った。

「ううん。別に。」

 それは本当にどうでもいいことだったし、あきほにもどうやらそれが伝わったらしかった。

「そっか。ならいいんだ。」

 あきほはせっかくきたんだからねー、とついでに付け足した。

 この子はほんとにあきほかな?

 ばかばかしいとすぐに打ち消せる程度の、錯覚のような疑問が一瞬だけその横顔に重なった。

 

*   

 私は昔この街に住んでいました。

 あきほ、という友達と一緒の幼稚園で、大の仲良しでした。

 ところが私は、北の街から、ここより南の、東の街に引っ越すことになって、一度はそこを離れました。

 東の街でも普通に暮らして、でもそこに十年くらいいました。そして、また、帰ってきました。

 十年後の街や、十年ぶりの友達が記憶と同じように見えるわけがない。同じなわけがない。

 当然のことでしょう?

 

「だって故郷がない人だっているからね。」

 転勤族だった私は、今また戻ってきた元、地元の雪に膝まではまって、悪態の代わりにそんなことをつぶやいていた。

 さすがに今日は運動靴なんてはいていなかったけれど、口元を絞ってあるスノーブーツで、スキーウエアのごわごわしたズボンをはいていてもなお、雪は隙間に入り込んできそうだった。

 この感覚は、確かに覚えがある。

「懐かしいかどうか・・・は、別だけどっ・・・てい!」

 もやもやはっきりしない思考が苛立たしくて、やたらと独り言が増える。真っ白な平野でひとしきり暴れて、やっと足は抜けてくれた。

 ここで懐かしいことに出会ったと思ったら、またいきなり都会が懐かしくなったり、でもやっぱりどうでもよくなったり・・・いそがしい。

 まあでも、懐かしいかどうかは大した問題じゃないのだ。

 頭の裏で一瞬、ネオン板に照らされてニヒルな笑みを浮かべる〝君〟が瞬いた。

 

  *それで

「運動靴また乾いてないやん。」

 湿ったそれに片方ずつ手を突っ込んで、仏像様みたいな格好で靴裏同士を合わせながら台所まで行くと、母は顔をしかめた。

「馬鹿なことやんない。――布団乾燥機あったでしょ、あれで乾かせばすぐよ。」

「はあい。…私が出すの?」

「あんたの靴よ。」

 面倒くさいなあ、と台所をあとする。居間の棚をごそごそやり始めると途端に「あんたのくつよ」と母の口調をうざったく真似して妹がからかう。それにおろろろろ~、と舌を出して・・・・・・直後に「何歳だよ」と自分で突っ込んで自分で反省するのも、毎度のこと。

「あー、しもやけ。」

「うるさい。」

 妹が指さした足下のしもやけは、昨日よりちょっと重症化しているようだった。

「靴下履けば?」

「ご指摘どうも」

 ごおおお、と音を立て始めた布団乾燥機の温風で暖まってから居間を後にすると、ひんやりした床に熱をもったしもやけがかゆくなった。

 しもやけは急に暖まるとかゆいのがひどくなる、そういえばそんなことを昔母に言われたような。

 部屋に入れば、愛猫はいつもベッドの上に鎮座している。

 昨日のオルゴールは机の上に出しっぱなしだ。それを飛び越えて、灰色猫はにゃああん、と首をもたげた。

「絶対踏むなよー…」

 刺してもしょうもない釘を投げかけて、箪笥からもこもこの冬用靴下をはく。

 ちょうど、片足をあげたそのとき、くらい。

 ――――冬は嫌いだ。

 それは私のことじゃない、

 誰か別の人間の声が、ふいに私の頭の中に響いた。

 ――――寒さは心地悪いし、乾燥するし。外に出たくなくなる。

 直感した。

 運動靴の型だ。

 居間で今まさに乾いているであろう運動靴の型が…確か、彼と一緒だった。私は今まで覚えていたんだろうか、そのことを?

 今更、堰が切れたように溢れかえる都会のにおいは、あの運動靴のせい……

 ――――おまえ、夏生まれのくせに、秋冬っぽいな。

 ――――すきで夏に生まれたわけじゃないから。

 そう。君は夏の直前と直後の、ぬるい夜が好きだった。

 ――――まあ、別に夏も嫌いじゃないけど。

 ――――俺は冬が嫌だ。

 ――――誰か一緒じゃないとさみしくなるね。

 独りの人間は冬を嫌うんだ。

 

  *またそこへ

 今は冬ですね。

 雪のあと、曇天の空を見上げて、また性懲りもせず運動靴を履いてきてしまって、除雪車のかき分けた道を歩いていた。

 いつも、夜にばかり外をふらついていた君は、この季節ばかりは家にこもっていますか。

 それとも、この寒さを忌々しく思いながら、煌々と瞬くネオンの下の人混みに、猫のように紛れ込んでいますか。

 こんな北の街で―――あの街と対比するような、厚い雪に閉ざされた街灯りの都会で、私はまた、

 自分の記憶を現在に過去に、忙しく動いてしまう。

 そうやって、目の前の友達すら本物かどうか・・・・そして、君すらも本当に存在したのか。見失った私が今、望むもの。

 

 都会の濃い夜空を思い出して。

 その下で笑う君が今、欲しいだなんて言ったら君は、馬鹿なことだと笑うだろうか。

 

 了