花よりほかに
「夜桜が見てみたいんだ」
そう紡いだ彼女の唇は、淡い桜色をしていた。
春は出会いと別れの季節だという。学生であれば入学式や卒業式、社会人であれば新生活の始まりを意味するだろう。一瞬の絶大な悲しみは、直後に訪れる出会いの喜びに塗りつぶされ、人々は軽薄に笑い、薄情に忘れていく。
だが、きっとこの春は俺にとって忘れられないものになる。俺は傍で儚げに笑う彼女の顔を見ながらそう確信していた。
人々のように素知らぬ顔をした春は、当然のように俺たちにも訪れると、彼女の家族に転勤という風を残して立ち消えていった。夏の新緑はそんな風にも葉を揺らせ涼しげな音をたてるだけだが、春の花弁は脆くも枝から引きはがされると飛ばされていってしまう。彼女もそうして消えてしまうのだ、と思った。
遠距離恋愛、という言葉に現実味を感じなかった俺は、そのうちこの関係がいつの間にか消えてしまうのではないかと悲しい予測を立ててはやめ、何かとはぐらかして発言を避けてきた。別れたくない、というには女々しいが、このまま二度と会えないかもしれないと思うと、自然と涙がにじんでくるほどには未練が多かった。
そんなとき、彼女が言ったのだ。
「桜を見に、連れてって。お別れの前に」
明確な別れに言及したのは、俺と彼女の間にそれまで一度もなかったことだった。彼女はいつもと変わらない微笑みでそう告げ、俺は意識もしないまま頷いていた。
そうして俺たちは、市内で有名な公園へとやってきた。
桜を見たら、もう二度と会えないかもしれない。
別れは避けられないことなのに、意固地になって桜にこだわっている自分がいて、少し可笑しくなった。
寒がりの彼女は、周りで酒盛りをしてる人の中には半袖の人もいるのに、まだマフラーを巻いている。小さな掌から顔を覗かせるホットの缶コーヒーを口元に運び、ほうっ、と息をついた。
七分咲きの桜は申し訳程度のはなびらを、ひっそりと彼女の肩にそそいだ。
「…もろともに、あはれとおもへ、山桜…」
じっと彼女を見つめていた俺は、その薄桃色の唇が動いて、何かをつぶやくのに気付いた。
「何?…何か言った?」
「もろともに、あはれと思へ、山桜……はい、続き。」
「ええ?」
彼女はいたずらっぽく笑って促すが、俺に続きは無理だった。
「それ…百人一首か?」
「うん。まあ、それくらいは知ってるのか。」
桜が一枚、また彼女の髪の毛に降り注いで、無意識に俺は手を伸ばしていた。
「もろともに、あはれとおもへ、山桜。………花よりほかに、知る人もなし、でしょ。」
手櫛でそのやわらかい髪を梳くあいだも、彼女は視線を斜め下にじっとしたまま、言葉を継いだ。
「これ、ソメイヨシノだけどね。
江戸時代に作られた雑種だから。」
うん、知ってる、俺はなるべくやわらかな声で言おうと心がける。遠距離恋愛の成功率とかそんなのはネットでの噂じゃ低いというのが定説だ。そんなこと知りたくなかったな、とあふれた言葉に彼女は目ざとく気付いた。
「あたし、行きたくない。」
それはこちらだって同じだ。行ってほしくない。けどこれは二人の間だけの問題じゃない。それを知っていて、彼女は最後にこんな泣き言をいうのか、と少しだけ驚いた。
「あのさ、この桜、ソメイヨシノだろ。」
俺より背の小さい彼女の頭に向かって言葉を投げかけた。桜には葉が一枚もない。やわらかな桜色がまたはらり落ちる。
「ソメイヨシノってさ。全部クローンなんだってよ。」
え、彼女はいきなり何を言うんだとこちらを見上げた。
「日本全国のソメイヨシノはもともと同じ木から挿し木して作られたんだって。」
だから、俺の息はひゅうと一回だけ鳴る。そのあとに続く言葉は恥ずかしくてなかなか言うことができない言葉であるけれど言わなければいけない。言わなかったら彼女との糸が気付かないレベルでほつれが生まれてしまう。
「俺は桜を見たら、君を思える。だから君も。」
「お互いを知っているのは二人とこの桜の花だけなのだからってこと?」
彼女の顔に笑みが浮かぶ。やっと笑ってくれた。何とかなるかもしれない。ずっとつながっていられるかもしれない。かすかではあるが強い希望が俺の胸の内に現れ出た。
了